風のたより

電子計算機とは一極集中の現象が大であるが、その合間を縫って風の一頁を

八月(2)五木寛之「風の王国」

2021-08-18 17:23:59 | 世評
五木寛之の「風の王国」を読んだ。初めて読んだ。多分文庫本では文字が小さいだろうと思い、図書館で借りた。昭和60年(1985年)1月25日印刷、昭和60年(1985年)1月30日発行、発行所新潮社、定価1,300円、上下巻ではなく1冊である。もっと長編かなと思ったが1冊にまとめている。発表誌は「小説新潮」昭和59年7月号から9月号である。従って第一部から第三部までの構成になっている

あとがきに、この小説は、作者の見聞と想像にもとづく創作であり、実際のいかなる団体や人物とも関係がありません。なお執筆にあたって参考にさせていただき、多くの啓発と暗示を得た文献、著書、論文等は左記の通りです。著者の方々にあつく御礼を申し上げます。なお様々な御教示をいただいた網干善教氏、太田信隆氏、K・A氏、その他の方々にも感謝の意を表する次第です。そして参考資料として何十冊、いや百冊は優に超えるであろうな、書名・著者名・出版社名を掲げている。

映画では最後に作品に関わった者や参考とした物を掲げているが、この「風の王国」も完とした後に夥しい参考資料を掲げている。それは虚構であるが、あり得る物語であり、この国の歴史書とも言えるからであろうな。この本は読みやすいし面白いんだな。小説、物語とは冒頭の場面で決まるとも言える。これからの物語の展開がどのように開けていくかが興味である。官僚たちの夏もそうだが、この風の王国も一気に読んでしまう、それほどの面白さを兼ね添えている。そしてこの国の歴史も変遷も描いている

「≪天武仁神講≫のことを、なぜ≪フタカミ講≫というのですか」
と、速見卓はきいた。ずっとそのことが気になっていたのだった。
「≪フタカミ講≫は≪二上講≫です。いま二上山と呼んでいるあの山を、古くは≪フタカミヤマ≫と言っていたところから、葛城遍浪先生が講を作られるときに山の名前を借りられたそうです。いつまでも二上山のことを忘れまいという強いお気持ちからでしょう。そのことは、少しずつお話します。」
葛城哀の言葉を勇覚がおぎなって続けた。
「むかしの仏門の隠語で、数をかぞえるときの一を≪大無人≫といったそうですね。つまり大という字から、人を無くすと、一になるでしょう。二は、天無人。天から人を無くして二です。つまり天武仁とは音を合わせて字を選んだ≪二≫の隠語というわけだ。神講は、カミコウ。いいですか。天武仁がフタツの意。神はカミです。宗教法人として届けてあるのが、≪天武仁神講≫。≪二上講≫という結社の名を、世間に知られたくない理由があったのですね。こういう隠語を、昔はさまざまな職業の人が独自にもっていたようです。さっきの例でいいますと、三が王無棒(オウムボウ)。王からタテ棒をとると三。四が署無者(ショムシャ)。五が吾無口(ワレムコウ)。六が立無一(リュウムイチ)。七、切無刀(セツムトウ)。八は釜無金(カマムキン)、九が鳩無鳥(キュウムチョウ)。この九などは、まことによくできていると思いますよ」
「ということは、講の仲間と話すときは≪フタカミ講≫といい、外部には≪天武仁神講≫というわけですね」
「そうです」
勇覚はうなずいて言った。

物語は明治の初めの頃、大和の葛城山中にひとりの若い山岳行者いた。彼の修行の中心地は竹内街道に接する二上山だった。彼は村の人々には近づかなかった。そのかわり吉野から大和、河内の川筋をつたって、回帰性の移動・周遊の暮らしをおこなっていた無戸籍の移動生活者のグループ、つまり≪ケンシ≫たちとだけひそかに接触していたようです。それは≪箕作り≫の一族だった。

古くから大和の支配者の条件のひとつは、大和川の治水と≪竹内街道≫の整備にあった。竹内街道は日本最古の官道と言われる。明治の難工事としてスタ-トした大開墾は当初は労務者、ついには囚人を工事に駆り立てたが支配者は苦心した。最後の人員調達が明治10年の大和・和泉・河内地方での無戸籍の浮浪者狩り、いわゆる彼らの名づけた≪山窩狩り≫だった。

現場監督は、強制連行した二百四十数名の老若男女を、ひとまとめに二上山の麓の採石場跡に収容した。若い山岳行者も一緒に狩られた。彼は容貌と身軽さから≪葛城の猿≫と呼ばれた。二上山の開墾工事は再開された。≪葛城の猿≫はいつの間にか仲間たちの世話役としてリーダー格の存在となっていった。彼はじつに≪一心無私≫の人であった。

ある日、工事責任者が配下の男たち数人を連れて労務者の中から丈夫そうな男八人を選んで、多分隠遁した美術品を掘り起こすために使役に狩り出した。八人は全部≪ケンシ≫の仲間であり、≪葛城の猿≫も志願してその中に入った。着いた所は浜寺の海岸ぞいにある廃屋であった。その晩の真夜中に舟に乗って、とある場所に着いた。そこは二上山の雄岳の頂上にある大津皇子の墓と、どこか似ていた。ここを掘れと命令され、分厚い巨大な石の板が出てきた。八人の男たちは石面に穴をあけたら別の場所に連れていかれ、また穴を掘らされて生き埋めにされた。

≪葛城の猿≫は、自分の体の上に七人の体が彼をかばうように覆いかぶされたので、彼だけ地上に這い上がれた。そして現場監督の自宅を突き止め一刺しで倒して二上山に戻って皆に状況を説明した。皆のむくろの下で自分だけが助けられた。だから残されたわしは、一生をかけて、ここにいる仲間のためにつくすと。≪葛城の猿≫の本当の名前は≪バサラのヘンロウ≫という。伊豆の≪ケンシ≫をハナれた者だ。わしの奥津城は、今日からこの大和の二上山と決めた。名前も≪葛城の遍浪ヘンロウ≫と変えると言った。伊豆の山中にわしの同胞(キョウダイ)がいる。八家族、五十五人が二上山を脱出して伊豆への二百里の≪大疾歩(オオノリ)≫に出発した。

天城を越え、途中で八人を失い、着いた時は四十七人になっていた。これから先は≪ケンシ≫の姿はこの国から消えるだろう。だが、われらは滅びてはならぬ。世間にトケコみ、そのなかで力をつけ、ひそかに≪ケンシ≫の心を保ち続けて生きるのだ。われらはあの雲に隠れた二上山を決して忘れまい。

葛城遍浪はまず≪フタカミ講≫という結社を創った。世に言う≪天武仁神講≫だ。≪ケンシ≫の心を隠して一般社会にトケコむために、死にもの狂いで戦った。無からの出発だった。また講の内外では、葛城の遍浪を中心に、≪へんろう会≫という組織もできた。

へんろう会の代表世話人である射狩野冥道が社主である射狩野総業60周年の宴で≪フタカミ講≫二代目講主葛城天浪は出席せず、娘の葛城哀が宗教法人・天武仁神講の講主代行として祝辞を述べた。遍浪先生の信念とは、一に相互扶助、二に自然共存である。そして共に助け合い、わかちあう心を、一心無私と言った。また一所不在と念じられたのは、自然の山河を故郷として生きる志です。そして先生はその八十余年の生涯を、苦しみつつある友を助け、大自然を愛し、一生無籍のまま、山河を放浪して終えられた。いまの≪へんろう会≫の中には、道を誤って、先生のご遺志に背いた道をゆきつつある人々が、おられるのではないか。相互扶助の名のもとに、さまざまな利益優先の連合を組み、自然開発の名のもとに、かけがえのない自然の山河を荒廃させることに組みする企業がありやしないか。と
講が射狩野グループに対して宣戦布告をした

伊豆には婆沙羅峠(バサラトウゲ)をくだったあたりに≪箕作≫という地名がある
興味ぶかいのは、686年、大津皇子(オオツノミコ)の処刑にあたり、共同謀議の罪にとわれた礪杵道作(トキノミチクリ)が流されたのも、この土地だと伝えられていることです。すなわち、古来、≪箕作り(ミツクリ)≫は同時に山中の≪道作り(ミチツクリ)≫でもあったわけですね。また、役小角(エンノオヅヌ)も伊豆へ流されております。

本来≪ケンシ≫たちには、里人に物をもらって感謝するという習慣はなかったようです。自然も、人間も、共生し、相互に扶助することが生きる道だと信じていたからでしょう。物乞いも、りっぱな人間の生きかただったのです。

670年にいわゆる≪庚午年籍(コウゴネンジャク)≫が制定されて以来、戸籍はつねに権力の基礎でした。しかし、それにもかかわらず、明治から昭和にかけて挙国一致体制のもとで、なお戸籍編入をこばみ、国民の三大義務である≪徴兵≫≪納税≫≪義務教育の≫三つを無視しつづけた多くの人々が、この日本列島を地下水のようにひそかに流動していたことを誰も否定することはできないでしょう。
日清戦争の動員のあとでさえ20数万人、第二次大戦後の昭和24年の時点でなお、約1万4千人の箕作り系≪ケンシ≫たちが無戸籍のまま、この列島に流動していたといわれます。その他の職業についた≪ケンシ≫たち、また無職漂泊の人々も加えれば、80数万人の人々が戸籍をもたず、流動していたのです。それらの非・国民を根こそぎ強制的に定着させたのが、昭和27年、朝鮮戦争を機に、国家再編成をすすめる基本として全国的に施行された≪住民登録令≫でした。
この列島にすむすべての人間は、登録法にもとづいて居住地を定め、その住所を届出ると同時に、米穀通帳、国民年金、健康保険、選挙人名簿等を一括登録することを義務づけられたのです。のちに≪住民基本台帳法≫として完成するこの政令は、戸籍を拒否する人間は一人たりともこの国にはすまわせないという、強烈な国家の意思を反映した無籍者への最後の一撃でした。
これによって、実質的に千数百年の≪浪民≫の歴史は、表面的にその幕をおろすのです。

「無籍流浪の人間は為政者にとっては困りものです。徴兵ができない。税金・年貢がとれない。国家の義務教育を受けようとしない。つまり国民の三大義務を拒否する人々ですからね」
速見卓は、どこかで昔読んだ本のことを思い出して勇覚にたずねた。
「日本人には海の民と、山の民がいるという話がありますけど、≪ケンシ≫は、どっちのタイプなんですか」
「海は川に通じている。川は谷に通じ、谷は山に入る。山に住む人は、心の底でいつも海のことを懐しがってるんですよ。山脈のことをヤマナミ、山の波と呼んだのもそれです。つまり山の民の祖先は海の民なんですね。柳田国男は、山の神がなぜかオコゼという海の魚を好むという話を、ひどく興味をもって書いていますが、山の神さんも海が恋しいのは当然ですね。山の神も、そもそもは海からきたんですから」
「≪ケンシ≫とい言葉は、どこから来たんでしょう?」
「ただひとつこれだけはおぼえておいてください。遍浪先生のお言葉にこういうのがあります」
勇覚が目をとじて言った。
「山を降りて里に住まず、里にありて山を離れず、山と里との皮膜(アイ)に流れる者、これを世間師(セケンシ)というと」
「≪ケンシ≫は≪セケンシ≫の略ですか」
「いえ、はっきりはわかりません。≪山窩≫という俗称からよく誤解されますが、≪ケンシ≫はいわゆる、深山に住む山人ではないのです。山を降りて、人と世の間を、つまり世間を流れ歩いて生きると決めた一族です。山を降りながら平地に居つくことをしなかった私たちの先祖は、かならず人々の住む場所に近づきすぎぬ程度に接して生きてきたのです。農家の箕直し、箕つくりなどをして回帰性の周遊をくり返すグループが大半のようにも言われますが、それだけでもない。≪ケンシ≫にはいろんな暮らしの道がありました。私たちは、むしろ一つの国家に属することをこばんで、常に流れ生きることを選んだ浪民の末裔なのでしょうか。この管理社会とよばれる現代に、遍浪先生ののこされたその言葉が可能かどうか、私たちはそれをこころみながら生きようとしている。そんな気がします。」

一畝不耕(イッセフコウ)   一所不住(イッショフジュウ)
一生無籍(イッショウムセキ) 一心無私(イッシンムシ)

もともと講も≪へんろう会≫も、はじまりは一族の心と心の結びつきから生まれた。それが初心である。≪フタカミ講≫二代目講主の葛城天浪は、私はこのたび、カクレることに決めたと。そして≪フタカミモウデ≫の一行五十五人は二上山を目指して出発した。一行は深夜、伊豆山権現奥の院前に集合して、沈黙のうちに出発した。二上山を訪れた後は、必ず最後に仁徳陵に向かうのが≪フタカミモウデ≫のしきたりであった。「世界の多くの人々の思想は勝つか、負けるか、だが、私はそのどちらも好かん」と天浪は言った。速見卓は「でも、もし、勝つか、負けるかの、二つのどちらかの道しかないような時は」遠慮がちに天浪に訪ねた。「道は必ずあるものだ」と天浪講主は速見卓をみつめた。「もし、どちらかを選ばなければならない時がきたなら・・・」「どうするかな、哀」哀は眉一つ動かさず、静かな口調で言った。「負けます」

「よく言った。それでこそ三代目の講主だ」天浪の頬に赤味がさし、目に歓びの光がかがやいた。「勝つか、負けるか、それをぎりぎりの地点で迫られた時は、負けるがよい。負けて、無一物の姿となり、世間の陰を流れて歩くがよい。それが≪ケンシ≫の心だと私は悟った」そして二上山の巨大な風穴が縦横無尽に走っている穴にカクレ外からその穴を埋めさせた。射狩野冥道は銃撃に倒れたと。教団は自滅の道を辿り、無に戻った

この≪フタカミ講≫とは、米を食うと泥腐ると言って水田耕作をしない。正月の三ケ日の間、餅を食べない。山野でとれる雑穀類を食べた。ひえ、あわ、きび、とち、そば、それに大豆、小豆などの豆類や山菜、甘藷、山芋、その他の根菜類などが常食だったと。また幼時から歩くことを訓練された。歩行と言うと。偏平足まがいの者が多いと。そして口伝えによる文化の伝承を、文字による記録よりも大切にして生きてきたと、また知らない土地を旅するときには、ピストルは持ってなくても、精一杯の笑顔を忘れるべきじゃないと

この風の王国は自滅したが、続編を、青春の門のように再生を望むが、これはこれで良いかも知れない。何時だったかな、朝日新聞の声欄にネパールだったかな。自国では戸籍がないと。日本に来て結婚して姓が変わるので、自分ではないように感じたと

伊勢丹だったか靴売り場にシューフィッターがいた。俺の足は偏平足で汚いが・・・。今までに出あった足で、美しい足に会いましたかと聞いたら、ネパールだったかな、ヒマラヤの山地だったな。美しい足は良く歩く足だろうな

五木寛之に「戒厳令の夜」がある。あらすじは忘れたが、終盤は武装蜂起だったか。高橋和巳に邪宗門がある。大本教をヒントにした宗教教団の物語である。最後は仲間の第三高生と一緒に武装蜂起した。敗戦後、松本清張は日本の公安は優秀である。武装蜂起しようにも武器が無かったんじゃないかと言っていたが、軍部が崩壊しても武装蜂起は無かった。赤軍派が世間の脚光を浴びたのは、戦後もずっと経ってからであった

松本市でオウム真理教がサリンをまいたが、公安は分からず、一住民が犯人扱いされた。上九一色村に官憲が乗り込んだのは後になってからである。オウム真理教が動いたのは戦後も大分経ってからである。オウム真理教の信者たちは俗世間から離れ、上九一色村で出家したとか。国政選挙に立候補して若者を捕まえるべき踊っていた。国政に出たならば、その前に村長や村議会を考慮しなかったのだろうか。優秀な人間がいたのに、理解できない。上九一色村は風光明媚だったが、合併で無くなったが、当時の人口は2,000人を割っていた。数では、そして原住民に溶け込めば合法的に村の自治権を握ることも出来たろうに

一時、住基ネットの接続を拒否した自治体があった。住民の利益にならないとのことで国立市、矢祭町も拒否していたが、2012年に国立市、2015年に矢祭町が住民基本台帳ネットワークシステムへの接続を始めたと。マイナンバー制度への対応だと