写真上は兵庫県姫路市英賀にある英賀神社境内の司馬遼太郎文学碑。
「播磨灘物語」題字とサイン、どちらも自筆と思われる石碑。
一方、下の写真は日本民俗学の祖といわれる柳田國男さんの「生家」。
こちらは兵庫県福崎町に遺されていて、お隣には「記念館」も建っている。
どちらの場所にも、わたしの家系の痕跡が残されている。
なにか遠い所縁をいつも感じ続けています。
柳田國男さんは日本民俗学という独自の領域を掘り起こされた学究ですが、
その若いときの読書生活は、近隣であった「三木家住宅」の蔵書を
耽読していたことが「揺りかご」のようだったと記述されている。
こちらの三木家は歴代当主が大阪に遊学して多くの蔵書を持っていたそうで、
その「読書傾向」が柳田さんに原風景としての素養を提供した。
こういうことを知ったのは、15年前くらいのことでした。
一方で、司馬遼太郎さんは、秀吉に滅ぼされた播州・英賀城で
先祖がご縁があったとされ、氏の「播磨灘物語」はその経緯がモチーフを
形成していると「あとがき」に書かれている。
しかし、あまりにも落城経緯は生々しくその攻防戦の記述は書かれていない。
たぶん400年以上経っても人間関係的にまだ冷却期間が足りないのか、
と想像できる記述が垣間見られたりもしている。
そういう悩ましい経緯のようだけれど、ゆかりのある「英賀神社」境内に
この写真の「文学碑」はさりげなく端座している。
もうすでに鬼籍に入られたので、確認の術は閉ざされているのですが、
司馬さんの文章は大学生の頃からずっと読み続けているので
後になって知ったこの「つながり」には、まことに驚かされています。
この繋がりを知ったのは「播磨灘物語」あとがきでであり、
またわが家の家系が英賀に縁があると知ったのは、さらに時間が経ってから。
家系に縁があることを知ってから、播磨灘物語あとがきを再度読んだ次第。
時間にして、たぶん30年くらいのタイムラグがある。不思議な縁。
で、なんとなくこのふたりの先人に共通する空気が伝わってくる。
歴史、人間、いわば「日本人的」なるもののような
そういった空気感・強いマユのようなものに包まれていると感じる。
わたしが惹かれるのには、どうも由縁があるように思えるのです。
はるかな巨人の先人ですが、その導きに手を引かれ
自分自身の興味分野もすこしづつ楽しみながら掘り起こしていきたい。
そういうことに日々目覚めさせてもらえることに深く感謝しております。