住宅団体などの集まりが新型コロナ対策から開催されなくなっている。
代替的に「Zoom会議」が散発的には開かれているけれど、
ではそれが「世論」形成に至るかというと、それは難しい。
あくまでも「会議」であって、フランクな「交流」で自然に形成される
多数人による「常識形成」機会とは似て非なるものと言わざるを得ない。
新型コロナの最大の災禍は「社会の分断・断片化」だと思う。
多くの他者との自然な交流で形成される集団知による「常識的見方」の価値に
わたし的にようやく気付くようになってきた。
北総研がこの新型コロナの時期に発表した「木外壁での防火認定取得」という
ある種の「インパクト」がどの程度の浸透を見せるのか、
このことの「建築業界的」意味合いについて、それを検証する
常識的な「世論の場」が持たれないということはたいへん悲しい。
ふつうであれば、いろいろな「建築常識涵養の場」において検証され
次には「課題・問題点」が指摘されて、改良改善が施されて
その技術進化発展がさまざまに波紋を描いていく、というのが流れだと思う。
・・・と言っていても始まらないので、
わたし的にこの変化の次の段階として、木の外壁というものが
今後の住宅市場にどのような変化の可能性を持っているのか、
地道にたどってみたいと思っております。
写真は北海道札幌でそこそこ見かける「木外壁住宅」の経年変化の様子。
「北海道開拓の村」にはこういった住宅群が多数保存されていますが、
注意していると、札幌市中心部縁辺の古くからの「住宅地域」では、
このような木造住宅がいまでも散見されるのです。
わたし的には幼少期に見ていた「札幌の街・家」の基本的なイメージです。
家の外壁は黒くなっていくのが当たり前であって、
そこに冬になれば雪が降って白と黒のコントラストが形成された。
それは「街並み」の基本風景であり、心情に刷り込まれてきている。
この自然素材である木の経年的変化、黒変に対してイマドキのユーザーは
いったいどのような「反応」を見せるのかに強い興味を持っている。
住宅雑誌を発行するようになって、建築家の倉本龍彦さんや宮島豊さんなど
このようなイメージを共有する感受性に出会って安心感も持てたけれど、
しかし多数派というのはどのように反応するものであるか、まだ不明。
圧倒的な常識派は、そういう感性レベルではなく「防火」という実利に従順だった。
コスト面でほとんど差がない選択として提示される、
木の外壁と工業製品サイディングとの単純な「比較検討」に際して
若いユーザー層は、いったいどのような反応を見せるのか。
たしかに保護皮膜の塗装費用付加があり得るけれど、それは「風合い」との
見合いとも考えられる。ただ残されている木造住宅では
時計台などの象徴的木造を除いて、実用建築では塗装はあまり見られない。
手間とコストを考え合わせると、あっさりパスされたものか?
さらに作り手たちはどのように選択基準を提供するのか、興味深いのであります。
ということですが、写真はその木の外壁の経年変化ぶりと
それとのコントラストのように「出窓化」された開口部デザインの様子です。
出窓という建築手法は北海道で多用されたと思うのですが、
住宅技術研究の事跡を探っても、あまり論及は見られない。
辛うじて北大の絵内先生も関与された論文を発見しましたが、
出窓の発展形態としての「サンルーム」の研究。一部で出窓にも論及がある。
〜日本建築学会技術報告集 第23号 2005年6月
北海道における住宅用ガラス被覆付設空間に関する調査
ー濃霧発生地域におけるサンルーム付き住宅の有効性について
佐藤彰治 絵内正道〜
出窓とサンルームでは、どうも似て非なるとも思えるのですが、さて。・・・
サンルームもまた北海道では自然発生的に多くの事例があった。
わたしの親も自宅建築で迷わず造作したのですが、あまり研究はされていない。
寒冷気候と「出窓・サンルーム」との相関関係については確かに断熱気密のように
性能技術的に根源的とは言えなかったので衰退したであろうことはわかる。
しかし高断熱高気密以前の木造建築で、写真のような試みも
多くのユーザー志向として存在したことも事実だと思われる。その動機について
もうちょっとスポットを当てるべきではないかと気になります。
これらはむしろ開口部の重厚化、ガラスの複層化の端緒とも思えるか。ふ〜む。