「ALWAYS続・三丁目の夕日」2007年 製作日本
原作 西岸良平
監督 山崎貴
主演 吉岡秀隆
2005年の1作目より、こちらの2年後作成の続編の方がはるかに良い。前作は、西岸良平の漫画世界の単なるダイジェストの感が強く、しかもその絵は偽装されたレトロに近く、自らの中にある昭和30年代とはかなり違っていた。しかしこの続編は、物語にしても役者にしても映画の絵にしても、前作よりはるかに安定感があり、西岸良平の物語を自分のものにしている。絵の出来も大幅に筆者の中にある昭和30年代に近づいている。また羽田空港や数寄屋橋などを復元した絵は、かなりの仰天映像であった。またスタッフとキャストが変わらない続編なので、かなり細部に渡り映像世界の一体性が感じられた。おそらく映画を観る側にも、同じような慣れが起きているであろう。明らかにこれは、フーテンの寅のようなシリーズ化した映画が放つ帰郷感覚である。映画を観ているうちに、まるでその映像世界が我が家のごとく感じられ、映画の終りが名残惜しくなってくる。筆者においてこの感覚は、映画が名作映画であるための重要な条件である。したがってこの映画も名作なのであろう。ただしもともと西岸良平の世界とはレトロ空間である。筆者を含めて当時を知る現在の観客は、そこへと帰ることができないという郷愁から、あるいはそこに帰る場所を持ち得なかったという無念から、実際以上に映画世界に執着を感じているかもしれない。映画の終盤では、筆者はずっと泣きながら絵を観ていた。
昭和30年代の東京の下町は、現在の日本の冷たい街並と違い、はるかに人間の顔を見渡せる風通しの良い世界であった。ただしその差異は、当時と現在の人間の気質の差によって片付けられるような話ではない。それは意識の差異ではなく、物理的な事情に拠っている。当時の冬場の暖房はコタツが主流であり、夏場の冷房は扇風機があれば良い方で、基本的に団扇である。夜間の停電は頻繁に発生しており、街路照明も現在ほど明るくない。というよりも、公共の街路照明自体が少なく、実際には家々から洩れる明かりが夜間の街路の照明になっていた。したがって都市部であっても夜は真っ暗だった。ただし当時の街路照明の不足は、街路を見た目以上に暗くするものではない。なぜなら夏も冬も無く家々の窓は、開放されていたからである。とくに夏場は、夜間でも家々の窓が閉め切られるようなことは無かった。そして現実以上に町を暗くさせなかったのは、街路に恒常的に近在の人々が陣取っていたことである。当時の家庭の娯楽は、テレビが浸透し始めているものの、依然としてラジオが中心であり、経済的余裕があれば週に何度か近在の映画館へと出かけるのが基本スタイルである。もちろん読書好きなら、自室に閉じこもって本を読んでいるかもしれない。しかしテレビも空調も無い時代において、夕方に仕事を終えた人々の多くが、年間を通じて家の中に閉じもこり、ひたすら朝を待つ生活を毎日続けるのは無理である。このために当時の東京の下町は、昼夜関係なしに街路に近在の人が椅子を持ち出して座っていた。中には机や扇風機、またはラジオを屋外に持ち出し、新聞を広げて近所の人間と世間話の花を咲かせていた。あるいはトランプなどをしながら親交を深めていた。そうでもしなければ、時間潰しの材料が無い時代だったのである。しかしこのような空間は、昭和40年代に入ると一気に消失する。テレビの家庭への普及だけではなく、テレビ番組の充実、さらにストーブやエアコンなどの空調の普及、あるいは団地の登場を通じて、庶民の生活がかなりの短期で激変したからである。そして最終的に人々は、家の中に閉じ篭る生活を選んだ。映画「ALWAYS三丁目の夕日」の世界は、当時の東京の下町を再現しているのだが、そこに再現された景色は、むしろ現在の日本の冷たい街並に近く、上述の筆者の感覚とかなりずれた絵となっている。この時代には大都会の孤独は無く、逆に一人になるのが難しい時代でもあった。現在に比べると対人間の敷居はやたらに低く、東京から地方への一日がかりの鈍行列車での帰郷では、車内に自然に語らいが生まれ、意気投合することも多かった。というより、それが普通であった。そもそも当時は、同席の客と挨拶するのが事実上の義務であり、知らん振りするのは失礼なことだったからである。振り返ると良く見えるところも多いが、実際には面倒くさいことも多い。当時と現在の都市社会の差異は、田舎での風土に粘着した人間関係と都会での歴史を持たない人間関係の差異とほとんど同じである。両者の優劣を決めるのは、結局その人間関係の妥当性である。したがって田舎の人間関係に満足できない人は、田舎を飛び出して都会へと出てくるであろうし、最終的に満足する人間関係を築けない人だけが、人間関係を自ら放棄していた。
一方で当時は、まだ戦争の傷跡がそこかしこに残っていた。駅の待合室や列車内には傷痍軍人や戦争被災者が頻繁に出没し、動かせなくなった身体を世間に晒しながら、義援金と題して物乞いの周回をする姿が、日常の光景として存在した。戦争が終わったのは、ほんの10年ちょっと前である。よくよく恵まれた資産家でもなければ、誰しもが戦争の被害者として、そして加害者としての暗闇を心の中に抱えていた。よく知られているように、ゴジラの正体も、原爆の恐怖を具現した怪物である。口にこそ出さずとも誰しもが戦争に後悔し、列島を焦土に変えた戦争指導者への恨みつらみを共有していた。ただしほとんどの日本人において、戦争指導者を熱狂的に支持したのは自らである。民族の未来を憂い、戦争に反対した人たちは、反日非国民として獄舎に放り込まれ、少なくない人が終戦を待たずに獄死した。それどころか全体主義が国土を覆う頃には、そのような人たちは検挙の段階で、起訴される前に拷問死するようになった。皮肉なことに、すでに獄舎に繋がれていた人たちは、治安維持法改悪による拘留期間の無限延長により、命を救われたわけである。このような戦争への恨みつらみは、かつて同じ日本人であった朝鮮半島の庶民にあっても変わらないはずである。しかし朝鮮人民にとってその恨みは、列島本土の庶民のように、戦争を支持した自らへと向かうものではない。朝鮮人民は、日本人の自己都合で日本人にされ、侵略戦争の共犯者にさせられただけだからである。したがって朝鮮人民における戦争への恨みは、直接に対日憎悪へと転化するしかない。またそうでなければ、戦後日本が抱えた自虐の苦しみを、またも日本人と一緒に引き受けなければならないという理不尽が生まれてしまう。朝鮮人民における対日憎悪は、戦後一貫して燃え続けた。ところが肝心の日本人は、戦後50年の間、そのことを知らずに過ごしてきた。またはそのことを知る機会があっても、全く興味を持つことなく過ごしてきた。というのも、そもそもの日帝による朝鮮半島への領土的野心を裏付けていたのは、満州権益の護持だったからである。敗戦による満州権益の消失は、日本人から朝鮮半島に対する理不尽な関心も同時に消失させたわけである。この日本人の無関心を一気に変えたのが、2003年に始まる韓流ブームである。韓流ブームの始め頃は、韓国が日本を憎んでいたのに対し、日本が一方的に韓国好きになるという反日愛韓の奇妙な片想いの図式が現れた。この図式が現在の反日嫌韓という朝鮮半島における本来の姿を取り戻すために、10年の月日を要することとなる。
ちなみにこの映画での街路の側溝には全て蓋がしてあるが、当時の街路のドブにほとんど蓋は無い。またドブさらいは近在住民の日常的義務であった。道路が舗装されていないのが当たり前の当時において、ドブさらいを忘れた側溝はすぐに排水機能を消失していた。下町の街路のドブにほとんど蓋がされるのは、バブル期以後である。この種の生活感覚の時代的変化は、記録に残されない限り、後世になると消滅してしまうものである。映画の中に、石原裕次郎の映画を見ながら映画館全体が揺れる絵がある。このような形の映画館における観客の一体感は、大衆娯楽としての地位をテレビに譲った現在の映画では味わえない世界である。なお当時の映画館は上映中に禁煙ではなく、皆タバコを吸いながら映画を観ていた。このために映画館の座席の後部には、必ず後ろの観客のための灰皿が付いていた。これは都心の国電や私鉄にしても同じである。余程のラッシュ時でなければサラリーマンは車内でタバコを吸っており、車中に吸殻が落ちているのは当たり前の風景であった。
(2013/09/16)
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