北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

Félix Candela (フェリックス・キャンデラ) その1

2016-09-01 15:25:11 | 日記
バカルディ と言っても







このお2人ではない。(だいいち、バカルディなのかサマーズなのかよく判らない。)



Bacardí(バカルディ)は、メキシコのラム酒メーカー。




メキシコ・シティーの近くかどこかに会社と工場と倉庫があるはず、、、。







手前の四角いガラス張りの建物が、Mies van der Rohe (ミース・ファン・デル・ロ

ーエ)という20世紀の建築界の巨匠の一人と言われた建築家の設計した建物。画面の左、

三つポコポコした建物が、Félix Candela (フェリックス・キャンデラ)さんの設計

した建物。(ついでに言うと、その右の建物は、某・秩父のセメント工場のようであり、

さらに右下の建物は、取り壊されてしまうかも知れない、某・京都の浄水場のようでも

あるような、ないような、、、。)










ミース・ファン・デル・ローエさんの建物とフェリックス・キャンデラさんの建物の両方

が、一度に紹介されている動画がありました。







どうして、こんな組み合わせが実現してしまったかは全く不明。Bacardí(バカルディ)の

社長さんか会長さんが、建築好きのマニアだったのか? どうだったのか、、、?



フェリックス・キャンデラさんは、こんな方。





(ミース・ファン・デル・ローエさんは、このブログの2015年08月02日の記事『Alison

SmithsonとPeter Smithson』で、既出ですので割愛。)




フェリックス・キャンデラさんの建物で始めて見たのは、メキシコ・シティーの郊外?に

ある、ソチミルコと言う行楽地のレストラン。
















同上、図面。








       Félix Candela (フェリックス・キャンデラ) その2 につづく







追記  ソチミルコのレストランの図面の右上に描いてある「不思議な逆漏斗状の基礎」

    他所では見たことがありません、、、。








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Plaça Sant Felip Neri (サン・フェリペ・ネリ広場) その8

2016-09-01 09:56:57 | 日記




1936~39年のスペイン内戦 Guerra Civil Españolaの時、バルセロナはフランコ派と

対立する共和派の拠点だったため、1938年にマジョルカ島を飛び立った、フランコ派を

支援する枢軸側のイタリア空軍に、空爆されてしまいます。









南から北へ絨毯爆撃したイタリア空軍の爆弾が、Plaça Sant Felip Neri (サン・フェ

リペ・ネリ広場)に落とされてしまいます、、、。







教会のファサードの外壁の下の部分に、空爆の痕が見えます。ですが、この写真の時点で

、Carrer del Montjuic del Bisbe (司教のモンジュイックへの道?)の、アーチ状

トンネルの上の建物は、既になかったように見えるのですが、、、。樹木も横一列に植え

られて、それまで建物があったであろう位置に樹木が2本はあります、、、。教会の右側

の塀の位置には、現在、学校のような建物(教会と同じような高さ、同じような材質の石)

、そして、その出入り口があります。







左に、バルセロナ大聖堂の塔が見えます。その下の通路が、Carrer del Montjuic del

Bisbe (司教のモンジュイックへの道?)です。中央の水盤は見えません、、、。右側の、

現在はホテルになっている建物の、暗く影になっている先が、 CARRER DEL SANT

FERIP NERI サン・フェリペ・ネリ小路 です。
 








この写真が、被爆直後のものなのか、それとも、被爆後しばらくした何かの工事中のもの

なのか、よく判りません、、、。(工事中なら足場がないのはおかしいし、、、。)樹木の

配置が、上の写真と合わないような気もするのですが、、、。樹木たちが被爆しているの

は、間違いないと思います、、、。(この辺りは、このブログの 2014-10-09 の記事

『固いものと柔らかいもの』を参照して下さい、、。)










広場は、午後になって学校の扉があくと、子供達が大勢出てきて、あっという間に遊び場

になってしまうのです、、、。









3分すぎに、CARRER DEL SANT SEVER から バルセロナ大聖堂のクロイスター中庭が

見えて、左の建物の壁の標識に CARRER DEL SANT FERIP NERI 、サン・フェリペ・

ネリ小路 と読めるシーンあります。






                               おしまい、、、






追記  学校は、Escola Sant Felip Neri と言う名前のようです。あの扉のむこう

    に、こんな学校があったなんて信じられません、、、。すこし長いですけど、

    学校の紹介ビデオです。







    『Learn More』をクリックするとビデオが見られます。





追記の追記


        林達夫さんと久野収さんとの対談の中で、イタリアなどのラテンの国

       では公園や電車の中などで親子連れに出会ったら、まず子供を『可愛

       いお子さんだ』と褒める、子供を大切にする文化・習慣があるのだと

       紹介されていたと思います。Escola Sant Felip Neri学校のビデオ

       を見ると、大人の先生達が根気強く子供達に愛情を持って接している

       様子が伺えます。何が大切で何が大事かを判っている感じです。色彩と

       かデザインだけを見ても、子供の頃から、このように接しているかどう

       かの違いは、日本の国の街とか道路とか車を見るだけでも歴然です。

       保育園や幼稚園でも、日本の役所は一人当たりの園舎の面積とか園庭の

       面積とか、採光面積とか、基準ばかりで中身があるように思えません。

       最近の「森友学園」の報道など見ても愕然とするばかりです。

       この国では「愛国」か「愛国」でないかに関わらず、子供達が大人達の

       「出汁(だし)に使われている」だけかも知れないのです。 2017 0416
























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Plaça Sant Felip Neri (サン・フェリペ・ネリ広場) その7

2016-09-01 09:56:18 | 日記



カミロ・ジッテの『広場の造形』には、Plaça Sant Felip Neri (サン・フェリペ・

ネリ広場)は、載っていないと思います。













何故なら、『広場の造形』は1889年の本で、Plaça Sant Felip Neri (サン・フェリ

ペ・ネリ広場)は、その時は、まだ、いま現在のような広場ではなかったからです、、。







Rocaさんの19世紀の古い Plaça Sant Felip Neri (サン・フェリペ・ネリ広場)の

図面を見て、動画との違いに、気付かれた方もいると思いますが、








よく見ると CARRER DEL SANT FERIP NERI サン・フェリペ・ネリ小路 の右側の壁

が、真っ直ぐ伸びていて、今とは広場の形も広さも全然違います。広さは現在の半分も

あるかどうかです。




1936年までは、こうで、、、







1938年以降は、現在のこの姿なのです、、、。





(たぶん、すぐにではなくて、第二次世界大戦のあと、何年かしてからのような気がしま

す。ですから、現在の広場の姿になってからは、まだ70年も経ったかどうか、、、?この

図からすると、Plaça de Gamoa i Bachs も、この時、同時に出来たのかな、、、?)







1936年までは、教会のファサードの右端の、壁が『への字』で折れ曲がっているところ

までしか広場はなくて、中央の水盤もなくて、一番右の Carrer del Montjuic del

Bisbe (司教のモンジュイックへの道?) からのトンネル・アーチ状の出入り口も、

もっと左にあったはずなんです、、、。(トンネル部分も現在の3倍くらいは長かった。)






1日の仕事が終わると、Església de Sant Felip Neri (サン・フェリペ・ネリ

教会) に通っていたと言われている アントニオ・ガウディが、現在のような

広場の姿を目にしたことは、実は、なかったはずなんです、、、。







     Plaça Sant Felip Neri (サン・フェリペ・ネリ広場) その8 につづく












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Plaça Sant Felip Neri (サン・フェリペ・ネリ広場) その6

2016-09-01 09:55:37 | 日記



写真中央はバルセロナ大聖堂。 (ちゃんとした名前がありました。La Catedral de la

Santa Creu i Santa Eulàlia サンタ・クレウ・イ・サンタ・エウラリア大聖堂

略してLa Seu ラ・セウ でした。) その大聖堂の右下が、ローマ時代の城壁と城門。







城門のさらに右、建物に囲まれた、こんもりとした森が Plaça Sant Felip Neri

(サン・フェリペ・ネリ広場)です。広場の右上、画面が途切れていますが El Call

Major つまり ユダヤ人街 (Jewish Quarter) です。





ローマ時代の城壁に囲まれた部分を ROMAN CITY と呼ぶようなのですが、いつの時代

かは判りませんが、その ROMAN CITY の想像図。






左下に ローマ時代の城門が見えます。右側に川が流れていて、やはり少し「こんもり」

と盛り上がっているようです。

この絵の右下 Jewish Quarterには Montjuïc Cemetery『ユダヤの丘の共同墓地』

は描かれていません、、、。(時代が全然違うのかも、、、。)





東欧プラハなどの Jewish Cemetery ユダヤ人共同墓地です。









建物の立て込んだ街中にもあるんですね、、、。(ユダヤ人共同墓地によく植えられる、

ある種の決まった種類の樹木って、あるんでしょうか、、、?)





紀元前か、ローマ時代か、中世か、それとも黒死病(ペスト)の14世紀までか、いつの

時代かは判りませんが、自分たちにとっては異教徒であるユダヤ教徒をキリスト教に

改宗(折伏?)させようとして、ユダヤ人の共同墓地の中か(もしくは跡地?)にキリスト教

会を建てて、Bisbe 司教がその中(または縁か端っこ?)を歩いていたなんて事があった

んでしょうか、、、? 改宗(折伏?)させられたかも知れないユダヤ人のための専用通路が

Carrer del Sant Felip Neri 『サン・フェリペ・ネリ小路』 だと思うのですが、

そんなユダヤ人の人って居たんでしょうか、、、? (転んでしまうような、、、。)

お墓のあった時代なら、お墓参りだけ済ませたら、さっさと帰っちゃったんじゃないの?

お互い、意地っ張りと言うか、頑固者と言うか、、、。(そういう問題ではないか、、。)




   

現在のモンジュイックの丘。






緑の山の右半分は、バルセロナ・オリンピックの主会場。左半分は Jewish Cemetery

ユダヤ人共同墓地です。写真中央の下が ROMAN CITY です。僕には、Bisbe 司教が、

ROMAN CITY の Carrer del Montjuic del Bisbe (司教のモンジュイックへの

道?)を通って、この丘を登ったとはチョッと考えにくいんですけど、、。





1992年にバルセロナ・オリンピックの行われた、現代のモンジュイックの丘の、ユダヤ

人共同墓地のお墓のほとんどは、14世紀の黒死病(ペスト)以降のお墓のようです。







     Plaça Sant Felip Neri (サン・フェリペ・ネリ広場) その7 につづく















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