『妹』ではないですけど、 日本の普通の『オバサン』に、綿々と受け継がれているかも
知れない、一種の『しぶとさ』みたいなものも、相当に凄いものがあります、、、。
井川比佐志さんと、三田和代さん
ね、しぶといでしょ、、、。
住宅の設計とは、この『オバサン』を相手にすることなのです。生半可ではありません。
(『オバサン』どころか、もっと強力・強烈な、旦那の姉または妹としての『小姑』まで
登場してきたりする場合もありますので、気をつけましょう、、、。『お金は出さない
けれども、口は出すわよ!』という人が、一番やばかったりするものなのです、、、。)
柳田国男の『妹の力』(1925年)は少し長いのですが、それについて書かれた、
林達夫さんの『 妹の力(柳田国男著)』(1940年)は短いので紹介してみます。
民俗学は譬えてみれば時偶の巣作りの季節を外にしては、いつも身を翼に託して
定めなくあちこち飛び廻っている鳥のようなものである。そしてまた、この学問は
その訪問者にも幾分この身軽な翼を賦与してくれるから、いま私が『妹の力』を読
んでひどく見当違いに見える方角へ、すっとんで行ったとしても、それは民俗学でも
私の罪でもない。
この優れたエッセイは、著者がその郷里で見出された兄妹愛の事実、妹の純潔な
愛情と精神力とに支えられる兄の索漠たる外面的、闘争的生活の習俗を取り上げ、
そのいわば伝統的系譜を見事に描き上げたもので、それは処女=巫女の問題から
伝説に見られる兄妹間の宗教的提携の事にまで及んでいる。
ところで私が、それによって直ぐさま想い浮かべたのは、突拍子もないことだが、
フランス宗教文学の三大記念碑たるパスカルの『パンセ』、シャトーブリアンの
『キリスト教真髄』、ルナンの『イエス伝』であった。この三つの作品こそ、兄妹
の同胞愛、宗教的提携の美しい近代的所産であるからだ。
ジャックリーヌ、リュシー、アンリエット、という信心深い純潔な彼らの「半身」
なかりせば、これらの世界文学の傑作は生まれなかったことは確かである。そして
ヴィクトル・ジローが、柳田氏の『妹の力』が雑誌に発表された一九二五年に、この
三人の天才のかげにある「妹の力」を問題にした『偉人の姉妹』という書物を準備
していることを、興味ある符合としてついでながら注意しておきたいと思う。
もう一つの遠い連想は、ギリシャ悲劇の有名な女主人公アンティゴネとエレクトラ
である。これはむしろ「姉の力」とでもいったテーマに属するかも知れぬが、弟想い
の鼓舞者、男勝りの行為者たる姉の型は日本でも森鴎外が『山椒大夫』をはじめ幾つか
の作品で好んで取り扱ったものであった。
「妹の力」が同胞愛のイオニア型、情操的な聖女型を示すといえるならば、「姉の力」
はそのドーリア型、意志的な烈女型を示すものといえるだろう。そしてこれは当の女性が
男きょうだいの年上にあると年下にあるとに関係はない。年齢上のいもうとが「姉」である
ことも有り得るし、その逆の場合も有り得る。
かくして柳田氏の『妹の力』は、民間伝承の民族性に対してその世界性、習俗の名もない
庶民的埋没に対して、その天才的な記念碑的発現の場合をも我々に見せてくれたわけである。
民俗学の翼のちからに感謝しよう。
『妹の力』 おしまい