北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

ニュー・ホープ (New Hope)

2019-10-28 17:14:19 | 日記
アメリカのペンシルベニア州の町。20kmくらい東にはプリンストン Princeton。

西に20kmくらいには、クエーカー教徒の町 クエーカータウン Quakertown ?





町はずれ、デラウェア河畔にも近い、木工家具工場。







娘さん? こちらは世代間の引継ぎが上手に行っているみたいで、羨ましい、、、。







ちょっと長いけど、もうひとつ





こちらはお父さんも出ています。2分17秒のあたりのお父さんの右は、

もしかして、若き日の吉村先生、、、?




敷地内の建物の映像








父と娘








追記  松風荘のビデオなんですけど、Raymond Farm Center と

    Nakashima Woodworker が いっぱい出て来ます、、、。









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こっちは大丈夫です。

2019-10-22 13:45:08 | 日記


青山骨董通りの先の根津美術館。この敷地も東に向かって先すぼまりだ。

二宮の吉田邸とは敷地の広さが全く違うと言ってしまえばそれまでだが、

よく見ると、根津美術館の広い緑の敷地の東端の角に、小さな家がくっ付

いている、、、。『カニングハム・メモリアルハウス(旧・・・』って

書いてある、、、。





 






拡大すると、、、



 






でも最近、外壁の色を塗り直しちゃったみたいで、、、



 





以前までの、赤茶っぽい色のほうが、好きです、、、。(竣工時は無塗装、、、?)


 



ついでに言うと、大谷石の上の現在のフェンスよりも、以前の簡素な柴垣の方が良かった。




竣工当時?の写真を見つけました。


 



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神奈川県二宮町 駅の北側

2019-10-21 20:50:13 | 日記

このブログの最初の方の記事『東京オリンピックの頃』の中で


   ・・・確か「今日の住宅38集」とか言うタイトルの、文字通り38軒の住宅が

   紹介されている本があって、こちらも擦り切れるほど読んだ。小田原(板橋)

   の長谷川如是閑さんの家(八旬荘)とか、東大総長の茅誠司さんの家などが

   紹介されていて・・・・・


と書いた『長谷川如是閑さんの家』(八旬荘)が、もしかして今でも建っているかな?と思って、

小田原の板橋の周辺をGoogle Map で探した見た、、、。松永安左ヱ門さんと言う、戦前と戦後

の日本の電力王と言われた人の小田原の別宅『老欅荘』の近所らしいのだが、、、、




   



松永安左ヱ門さんの別宅『老欅荘』(地図の中では『松永記念館』)は、すぐに見つかったし、

周辺は、山縣有朋の『古希庵』や、清浦圭吾の『皆春荘』、三井財閥系の別宅などなど、かなり

立派なお屋敷ばかりなのだった、、、。

記憶の中の長谷川如是閑さんの家は、映画『お葬式』の中に出てくる伊丹十三さんの家のような

感じで、在野のジャーナリストの自宅なので、敷地もそれほど広い訳でもなく、豪邸ではない。

1階に玄関があって、2階から相模湾が見えるような、吉村先生の『原邸』のような住宅だった

ように思うのだが、Street View でも見つける事は出来なかった、、、。




その時、『二宮なら小田原から近いし、吉田五十八先生の自邸は?』と思って、やはり探して

みた、、、。たしか二宮駅の北側、少し広い道路を渡って、曽我兄弟のお墓のあるお寺の手前

、少し広い空地があって、その空地の奥に、緩いスロープが敷地の東端に沿って、修学院離宮

の『松並木』のようなアプローチになっていて(スケールはずーっと小さいけど、、)、上り

きったところに簡素な木戸があり、敷地は空地より一段高くなっていたように記憶していた。



 修学院離宮の農道のような松並木

 




その木戸を入った奥が、建物と庭になっていました、、、。


 



ところが、いくら探しても、その空地とアプローチの『緩いスロープ』が見つからない、、、。

『もしかしたら駐車場か何かにでもなってしまったんじゃないかな、、、?』と焦ってしまって、

落ち込んでしまいました、、、。(おっちょこちょいなんです、、、。)



空地とアプローチの緩いスロープが見つからなかったのは、空地に何軒かの住宅が新たに建って

いたからでした。(おそらく、アプローチの緩いスロープの『良い感じ』は大分損なわれてしま

ったのではないでしょうか、、、?)





てんやわんやの後で、こんなことを考えた、、、。







吉田五十八先生の自邸の敷地は、敷地を斜めに横断する『水路』のような流れがあって、敷地の

部分は暗渠になっており、手前の空地のアプローチも、明渠の『水路』に沿って『への字』のよう

に、鍵の手になっていなかったかな、、、? 先生は、戦争に負けるであろう何年か前の日本で、

疎開先として二宮の駅からも近い、農道のような道の奥まった寺院の手前の、農家の横の『水路』

の流れている緩いV字の谷間の『水路』で二分割された土地に、伐り土や盛り土などの工夫をして

敷地全体の設計をすれば、戦時中の面積制限下での小住宅と言えども、小田原の板橋の明治の元勲

達や、財閥や電力王たちのお金持ちの豪邸にも負けない、アプローチと主屋と庭の組み合わさった

自邸を創り出せる事を見抜いて、あの土地に決めたんじゃなかったのかな、、、?(庭はともかく

自邸の建物自体は、固い地盤の上に建てられる訳だし、、、。)





上の写真の庭の下には、太い土管の暗渠が、斜めに走っているはずなんです、、、。

























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