北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

両墓制と単墓制

2015-12-17 17:30:30 | 日記
「両墓制」というのは、主に西日本などで「詣り墓」(まいりはか、祭地)と「埋め墓」(うず

めはか、葬地)が別々の場合(瀬戸内海の島々などにも多かったようです)、「単墓制」は

主に東日本などで、お墓は一つで「詣り墓」と「埋め墓」の区別がない場合を指すようです。

と言っても、明治大正以降など火葬が一般的になってからは、西日本などでも新しく作る

お墓の場合は、「単墓制」が一般的になっているような気もしますが、実際のところはどう

なんでしょうか?(調べてみましたらば、香川県三豊市仁尾町家の浦地区では、現在でも

続いているようです。「土葬」のような気がしますが、違っていたらごめんなさい、、。)



両墓制分布図



「両墓制の分布(佐藤米司氏による)」(『図説 民俗探訪事典』)

ブログbokuhakaze3、http://blog.zaq.ne.jp/bokuhakaze3/article/1000/より

(西日本というよりも近畿と中京、関東と甲信越なんですね、、、。瀬戸内海の西半分と

九州にないのは意外でした、、、。北海道は地図もありません、、、。) 





「埋め墓」の例






香川県多度津町、塩飽諸島の佐柳島(さなぎじま)長崎の「埋め墓」でしょうか、、、。









佐柳島のすぐ近くの高見島


手前が「埋め墓」、奥の立派な墓石が「詣り墓」でしょうか?手前の「埋め墓」の周囲は砂地

で、羽咋の折口信夫父子墓を想わせます、、。








このブログの、『産屋』の補足 の記事の中の胞衣(えな)」(胎盤)についての文章で、



   しかし、日本列島に関しては、ケガレへの対処の仕方に列島東部と西部とで

   違いがあったことを明らかにした研究が行われています。

    (中略)

   縄文時代から見られるやり方で、胞衣を竪穴式住居の入口の地面に埋めてしま

   います。子供が赤子のうちに死んでしまった場合も同じ扱いをしていたようで

   すが、現在でも、胞衣をなるべく人が踏むことの多い場所に埋める習俗があり

   ます。戸口や、道が交差している辻にわざわざ持って行って埋めることまで行

   われています。これに対して、住居から離れた場所に「産室」を設け、「産屋」

   を建て、その床下を深く掘って胞衣を埋めるというやり方をしている地域があ

   ります。

   とにかく、胞衣をなるべく遠くへ持って行って埋めることが重要であり、例

   えば室町時代の将軍家の場合は山中に埋めに行かせたりしています。

   木下氏はこの二つのやり方のうち、前者を縄文的、後者を弥生的と呼んでお

   り、前者はケガレに対して神経質ではなく、むしろおおらかであり、後者は

   敏感でケガレを忌避する傾向が強いと捉えておられます。



とある引用文と、東日本と西日本の違いという意味では、何かしらの関連があるのかない

のか、、、?(なんだか範囲が微妙にズレているような気もする、、、。)



土葬の「埋め墓」の場合、その「ハカ」の上に「設(しつら)え」として、「竹の囲い」や「喪屋」

を作る風習があったようです。設計士の私からすると、『喪屋』と『産屋』は、とても似

ています、、。

家形?の「竹の囲い」は「サギチョウ」または「サギッチョ」または「シズクヤ」または「タマヤ」

などと呼ばれて、「サギチョウ」は漢字で書くと「左義長」と書くようです。垣根のような

「竹の囲い」は、「イヌハジキ」または「イガキ」などと呼ばれて、「イガキ」は漢字で書くと

「忌垣」と書くようです。(どれも竹などによる簡略な作りですので、四十九日も過ぎると

壊れてしまい、最後、はずされてしまって燃やされたりするようです、、、。ですから、

佐柳島長崎の「埋め墓」の写真には、何も写っていないのかも知れません、、、。)



イザナギがイザナミを連れ戻そうと黄泉の国に行ったのは、この四十九日の間の事だった

ようです。(大和朝廷に取り込まれる時に、それまで出雲にはなかった?「穢れ」が現れ

たという説もあって、このあたりは難しいです、、、。)



「忌垣」といえば、東京の青山霊園には見上げるような日清・日露戦争の頃の大将や中将の

お墓が(巨大な石)、たくさんあったりするのですが、、、。僕が一番好きだったのは、

茶道家の塩月弥栄子さんのお墓でした。下は土のままで、周囲に竹の簡略な「忌垣」が周し

てあり、質素な五輪の塔があるだけなのです。さすがに古式や古風が判っていらっしゃる

というか、竹の「忌垣」は何年かすると直さなければいけないと判っていても、そのような

「設え」を選ばれたのだと思います。青山霊園に行きましたら、是非探してみてください。





追記  塩月弥栄子さんのお墓は、前にネットで写真を見たような記憶があったのですが

    今回探したのですが、見つかりませんでした、、、。

    青山霊園有名人の墓 http://graveofcelebrity.web.fc2.com/ いくら探しても

    塩月家のお墓どころか、五輪の塔に「忌垣」のお墓が見つからない、、、。困った

    、、、。自分の感違いだろうか、、、? 塩月家のみなさん、申し訳ありません。

    (塩月家のお墓というだけで、あまりにも趣味が良くて品もあるので、てっき

    り塩月弥栄子さんのデザインしたお墓だと思ってしまったのかも知れないので

    す。僕がそのお墓を見たのは30年以上前で、その頃まだ塩月弥栄子さんはご存

    命中なのです、、、。重ね重ね、失礼なことで申し訳ありません、、、。)



追記の追記  熱海の近くの伊豆山というところに興亜観音という観音様があって、東京

       裁判の後になくなった方々の実際のお墓があります。興亜観音が「埋め墓」

       でしたら、靖国神社は「詣り墓」ということになるのでしょうか、、、?

       一般的に、「埋め墓」よりも「詣り墓」のほうが、お金がかかっていて立派な

       ようなんです、、、。
  






           年末年始は東京の実家ですので、更新はしばらくありません。




追記の追記の追記   三河湾の三ヶ根山スカイラインにあるお墓は、東條英機さんの

           お墓だとばかり思っていたのですが、『殉国七士廟(じゅんこ

           くななしびょう)』と言って松井石根さんなど七人の遺骨が分

           骨されていて、『殉国七士墓』とも言うようです。




4つめの追記     稲田道彦さんと言う方の『瀬戸内海の両墓制を訪ねる旅』という

           Pdfを見つけました。最上孝敬さんという方の、1980年の全国両

           墓制分布図が載っていますので、旧版『詣り墓』附図と較べてみ

           て下さい。広島県と大分県のあたりがだいぶ違います。「両墓制

           の分布(佐藤米司氏による)」(『図説 民俗探訪事典』)は、

           旧版『詣り墓』附図に近いのかも知れません。(1950年代?)




http://www.kagawa-u.ac.jp/setouchi/h2021houkoku11inada.pdf


              

            
















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2 コメント

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Unknown (ランラン)
2019-09-23 20:33:55
この分布図はいつの時代の分布図でしょうか?
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ランランさんへ (小山です。)
2019-09-23 21:04:54
1950年代の調査だったと思います。似たような地図
で、広島や九州に分布していたものもあったように
記憶していますが、調査の時期の前後は判りません。
返信する

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