最近、自分ひとりで勝手に気に入っている、議論などのときの反論の仕方。
たとえば次のような議論。
日本は核武装すべきである。戦争が出来ない、戦争をしてはいけない国家など、
そもそも国家とは言えない。非武装中立などは絵空事である。戦争をするのな
らば最終兵器である核を持つべきである。(ここで、少し頭の良い人は核抑止力
などという議論のためだけの言葉を持ち出したりします。要は、その時の議論に
だけ勝てれば良いと思っているのか、、、? )
残念ながらこの議論は、「戦争は勝つ時もあるけれども負けるときもある」、の後半の
「負けるときもある」が、スッポリと抜け落ちてしまっています、、、。(核だって、
落とす国があると言う事は、落とされる国や地域もあると言う事なのです。)
つまり『物事の半分』しか見ていないし、考えていない事になります。反論する時は、こ
んなふうに使います。
残念ながら、あなたの言っていることは、『物事の半分』しか見ていない議論なん
じゃないですか? 僕にはそう聞こえますけど、、、。
でも、非武装中立の立場の人も、「攻めて来られたらどうするんだ?」と言われると、黙
り込んでしまったりします。(攻めて来られた時にどうするかの『物事の半分』は、やは
りスッポリと抜け落ちてしまっています。この点では、核武装論者の人と同じです。
「だから普段から、そうならないように努力しなければならないんじゃないですか」な
どと反論したりします。)
僕なんかは、「デンマークは即日降伏しているんですけど、今でもちゃんと国はあります
よ。僕なら太宰治さんと同じで裏山に逃げます」とか言ってしまいそうです、、。
(残念ながら、僕は核武装論者ではありませんし、非武装中立論者でもありません、、。
しいて言えば、、、ひ弱な日和見主義者でしょうか、、、。僕の2~3歳年上までの世代
は、いわゆる全共闘世代で、当時「日和見主義者」というのは、最低のレッテルだったの
ですが、僕は、自分にはそれが一番いいなと思っていました。人間、最低じゃいけないん
でしょうか、、、って、まるで蓮舫さん?)
こんなことを書くと、戦前ならば「貴様は、戦わずして負けると言うのか!話にならん」
などとどやされそうですが、僕は子供の頃から、「逃げて逃げて逃げまくれ」だったので
今更どうしようもないんです、、、。
この『物事の半分』、建築の時に何か使い途ないかなぁ、、、?