建築家村田豊先生の事務所は、広尾の外苑西通りに面して、有栖川記念公園の下、ビルの
2階と3階と4階、または、3階と4階と5階の3フロアーで、下が先生と奥様のおられ
るフロアーで、その上が永野さんや道瀬さんのいた所員の製図室、一番上は資料室のよう
になっていたと思います。外苑西通りの向いには先生の設計された喫茶店もあって、お昼
ごはんをよく食べに行きました。(先生の設計された店舗は、新宿の伊勢丹の1階の喫茶
店や歌舞伎町のビルの中のお店もあって、どちらも例のFRPのテーブルと椅子があった
と思います。)
村田豊先生は、文字通りの、とてもダンディな方で、新潟県は西脇順三郎さんや越路吹雪
さんなどダンディな人を輩出する土地柄なんですねぇー、、。(越路さんは女性だけど。)
村田豊事務所では、図面は全てインキングでした。僕がアルバイトでお手伝いさせて頂い
たのは、沖縄海洋博の芙蓉グループ関連の、いくつかの建物の図面でしたが、物凄く厚手
のトレーシングペーパーに当時のロットリングで、消す時は電動の砂消しゴムなので、製
図版のまわりは、いつも砂でザラザラになってしまうのです。
写真は大阪万博の芙蓉グループ館ですが
沖縄海洋博の芙蓉グループ館は、メンブレンの膜構造のドームの上の、餅網のような巨大
な円盤状の鉄骨の構造物で、水耕栽培のトマトか何かを育てるようになっていたと思いま
す。永野さんと道瀬さんは、沖縄ですから会期中に台風が来た場合に、どうやって渡して
おいたロープで、短時間に膜構造のドームを畳めるかを検討していました、、、。(たし
か人力だったような、、、。)
沖縄海洋博の芙蓉グループ館、見つけました。
村田豊事務所ではなぜ図面は全てインキングだったかというと、おそらくル・コルビジェ
の事務所と、その流れを汲む坂倉準三建築研究所に在籍した、当時のある世代の方々にと
っては、インキングで図面を描くのは当然というか当たり前だったのではないでしょう
か?(藤木忠善先生も大学を退官後、全国を図面の巡回展をされていましたが、ディテー
ルなどの詳細図を含め、全てインキングの図面でした。坂倉準三建築研究所では新宿西口
計画の図面は全てインキングだったんでしょうか、、、?とんでもない膨大な枚数のはず
ですけど、、)
写真は、坂倉準三建築研究所で村田豊先生が担当された、南青山の岡本太郎邸です。
村田先生の事務所では、夕方になると所員とアルバイトは、下の階に降りていって、村田
先生の「講義」を、毎日聴くのです。先生の奥様が紅茶とお菓子を用意してくださって、
長いときは2時間くらいあったような気がします。内容は、フランスのボザールの時代の
建築家のありかたと、現代の建築家のありかたの違いなどのお話が多かったように記憶し
ています。(ですが、僕は半分くらいうたた寝してしまって、贅沢な時間だったのに、先
生、奥様、申し訳ありませんでした、、、。)
先生の事務所には未完の建築の模型がいくつかあって、中でも、箱根か伊豆かどこかの、
とても大きな別荘の模型は圧巻で、吊り構造による茅葺屋根のその建築が実現していたな
ら、どんなにか素晴らしかったろうと思います、、、。
村田豊先生は、19世紀の建築家の残り香を漂わせた、日本では数少ないダンディーな
建築家だったように思います、、、。
2階と3階と4階、または、3階と4階と5階の3フロアーで、下が先生と奥様のおられ
るフロアーで、その上が永野さんや道瀬さんのいた所員の製図室、一番上は資料室のよう
になっていたと思います。外苑西通りの向いには先生の設計された喫茶店もあって、お昼
ごはんをよく食べに行きました。(先生の設計された店舗は、新宿の伊勢丹の1階の喫茶
店や歌舞伎町のビルの中のお店もあって、どちらも例のFRPのテーブルと椅子があった
と思います。)
村田豊先生は、文字通りの、とてもダンディな方で、新潟県は西脇順三郎さんや越路吹雪
さんなどダンディな人を輩出する土地柄なんですねぇー、、。(越路さんは女性だけど。)
村田豊事務所では、図面は全てインキングでした。僕がアルバイトでお手伝いさせて頂い
たのは、沖縄海洋博の芙蓉グループ関連の、いくつかの建物の図面でしたが、物凄く厚手
のトレーシングペーパーに当時のロットリングで、消す時は電動の砂消しゴムなので、製
図版のまわりは、いつも砂でザラザラになってしまうのです。
写真は大阪万博の芙蓉グループ館ですが
沖縄海洋博の芙蓉グループ館は、メンブレンの膜構造のドームの上の、餅網のような巨大
な円盤状の鉄骨の構造物で、水耕栽培のトマトか何かを育てるようになっていたと思いま
す。永野さんと道瀬さんは、沖縄ですから会期中に台風が来た場合に、どうやって渡して
おいたロープで、短時間に膜構造のドームを畳めるかを検討していました、、、。(たし
か人力だったような、、、。)
沖縄海洋博の芙蓉グループ館、見つけました。
村田豊事務所ではなぜ図面は全てインキングだったかというと、おそらくル・コルビジェ
の事務所と、その流れを汲む坂倉準三建築研究所に在籍した、当時のある世代の方々にと
っては、インキングで図面を描くのは当然というか当たり前だったのではないでしょう
か?(藤木忠善先生も大学を退官後、全国を図面の巡回展をされていましたが、ディテー
ルなどの詳細図を含め、全てインキングの図面でした。坂倉準三建築研究所では新宿西口
計画の図面は全てインキングだったんでしょうか、、、?とんでもない膨大な枚数のはず
ですけど、、)
写真は、坂倉準三建築研究所で村田豊先生が担当された、南青山の岡本太郎邸です。
村田先生の事務所では、夕方になると所員とアルバイトは、下の階に降りていって、村田
先生の「講義」を、毎日聴くのです。先生の奥様が紅茶とお菓子を用意してくださって、
長いときは2時間くらいあったような気がします。内容は、フランスのボザールの時代の
建築家のありかたと、現代の建築家のありかたの違いなどのお話が多かったように記憶し
ています。(ですが、僕は半分くらいうたた寝してしまって、贅沢な時間だったのに、先
生、奥様、申し訳ありませんでした、、、。)
先生の事務所には未完の建築の模型がいくつかあって、中でも、箱根か伊豆かどこかの、
とても大きな別荘の模型は圧巻で、吊り構造による茅葺屋根のその建築が実現していたな
ら、どんなにか素晴らしかったろうと思います、、、。
村田豊先生は、19世紀の建築家の残り香を漂わせた、日本では数少ないダンディーな
建築家だったように思います、、、。
のお店の名前は「まんが」だったと思います。週末に行くと永野さんと道瀬さんも来てたりしてました。北海道の帯広に道瀬さんの設計した膜構造の商業施設があります。もちろん見に行きました。永野さんは鹿児島から沖縄に移られたと聞いています。私は飯倉の「キャンティー」と言うお店には行ったことがありません。今でも当時の設計のままなのでしょうか?