北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

「さんまい谷」その2

2015-12-17 18:56:00 | 日記

 今では、「三昧」というと『中華三昧』みたいなイメージですけど、「三昧場」と書くと、

これは「焼き場」、つまり「火葬場」の事のようなんです、、、。水上勉さんの在所の、福井

県若狭本郷の岡田集落のはずれの「さんまい谷」が、「埋葬地」なのか「焼き場」なのか、僕に

は良く判らないでいます。



若狭本郷の岡田集落から、それほど離れていない(車なら30分くらい?)、福井県若狭町

の『上兼田の三昧』という「さんまい(三昧)」が、


「気楽にバイクライフ ●▲■」http://nmtr220.blog66.fc2.com/blog-entry-347.html


と言うブログで紹介されています。(youtubeすこし長いですが、8:00分あたりから)










火野正平さんの、『NHK BS プレミアム「にっぽん縦断こころ旅」2014春の旅』で取り上

げられていたようです。


Google Map






『両墓制と単墓制』の記事の「両墓制分布図」の若狭湾のところを良く見てみると、




「両墓制の分布(佐藤米司氏による)」(『図説 民俗探訪事典』)

ブログbokuhakaze3、http://blog.zaq.ne.jp/bokuhakaze3/article/1000/より




若狭湾の近辺は「両墓制」の地域になっています。「火葬」が浄土真宗と何らかの関係があ

るとすると、このブログの「中世」(2014-11-08)で少しふれた、井上鋭夫さんの「山の民・

川の民―日本中世の生活と信仰」によれば、北陸3県は『一向一揆』の中心地だったよう

ですから(福井県の吉崎御坊に蓮如はいたはずです。)、何故、同じ北陸3県なのに、若狭

以外は「両墓制」ではなく、おそらく「単墓制」(つまり土葬?)なのかは不思議でなりませ

ん、、、。





     次の記事は「若狭ニソの杜(もり)」です、、、、。





追記  鳥取県鳥取市気高町の『山宮阿弥陀森大タブノキ』の近くの、もしかしたら『三昧』?






左の三角のほうです、、、。




    右の奥が『山宮阿弥陀森大タブノキ』、手前の左が『三昧』? 

   


もしかして『三昧』?

   
 



追記の追記  福井県小浜市犬熊(いのくま)集落


       




       

                    滋賀県立大学 人間文化学部 地域文化学科 人間文化 (46)
                    『若狭漁村における女性祭祀と村落組織』市川秀之 より




       『犬熊海水浴場』と書いてある左下は『さんまい(三昧)』でしょうか?

       民宿客の駐車場になっているのが、古いお墓の場所だったようなので、『さんまい

       (三昧)』と言っても、埋葬地ではなくて焼き場だったのでしょうか?

       『年間民宿 浜岸』の文字の『民』のあたりには産小屋(さんごや)の建物が、

       昭和50年代までは建っていたようです。(実際にその頃まで使われていたかどうか

       は判りません。)


犬熊の『三昧』?






追記の3っつ目


福井県越前町陶の谷  蝉丸の墓(伝)

 

 

 

僕には『さんまい』に見えてしまう、、、。
      


 

 

 

 

 

 

追記の4っつ目  これは、いったい何なんだろう ?  安土城の近くの『新開の森』

 

 

 

 

 

 

 

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「さんまい谷」その1

2015-12-17 18:55:36 | 日記
「さんまい谷」の「さんまい」は「三昧」と書くのでしょうか? 仏教用語のようです、、、。


水上勉さんの「生きるということ」(講談社現代新書299)より、、、



  粗末な木の橋のこと


  小さい頃、母はよく、谷の奥に私をつれていって、蓑(みの)一枚ぐらいしかない小

 さな田の畦(あぜ)にすわらせ、自分は胸までつかる汁田(しるた)で苗を植えていた。

 この谷は暗くて、一日に陽が三時間ほどしか射さなかった。村でもきわめて貧しい谷

 であった。そんな谷の口に私たちの家があった。谷には畑もあった。そこで、母は芋

 や大根をつくった。ここへゆくのに、深い川が一つあった。木橋がかかっていたが、

 大水のたびによく流失したので、母はよく橋普請(はしぶしん)した。自分だけの働く

 谷だから、村の衆にたのめる工事ではない。宮大工の父がその日はかならずどこから

 か帰ってきて、山から丸太を二本伐(き)ってきて、せまい川にさしわたし、その上へ

 栗材のコロをならべて、流土を積むと、私たち兄弟にも踏ませて赤土の固い土橋にし

 た。一年ほどすると土橋は古ぼけてわきに草が生え、草の下に、神社の軒タルキを

 みるような、栗材の切口が白くならんだ。また、これが古くなると、栗材はくさって、

 橋の裏には椎茸がいっぱいできた。母はこれを穫って私たちの弁当のサイにしてくれ

 た。母は、自分一家の収穫のために谷田にわたされた橋を、その生涯に何ど架けただ

 ろう。若狭はずいぶん台風のすぎる土地だから、おそらく十回ぐらいは架けたと思う

 。いつ架けても、この橋は丸木の切り口の上に土のもられた、椎茸のみのる橋であっ

 た。


  私は、九歳でこの母に別れた。



水上勉さんの在所は、福井県若狭本郷の岡田集落です。この文章の中の「村でもきわめて

貧しい谷」のことを、水上勉さんは「さんまい谷」とも書いているのですが、集落からは離

れているようなのですが、私は現地では確認できませんでした。



調べてみましたら、関西電力のウェブサイトに、小さいのですが、生家の跡の写真を見つ

けました。(200%に拡大したので少しボケます。)







 中央の平地が生家の跡だそうですが、「そんな谷の口に私たちの家があった。」とある、

「さんまい谷」の入り口の感じは、この写真からは判りません、、、。(日当たりも良さそ

うですし、、、。)



岡田集落です。





岡田集落の南のはずれ(岡田集落から見て若狭湾の反対側)にある水上勉さんの記念館

「若州一滴文庫」





               
                   「さんまい谷」その2 につづきます、、、。

  
追記  どこが『さんまい谷』なんでしょうか?




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両墓制と単墓制

2015-12-17 17:30:30 | 日記
「両墓制」というのは、主に西日本などで「詣り墓」(まいりはか、祭地)と「埋め墓」(うず

めはか、葬地)が別々の場合(瀬戸内海の島々などにも多かったようです)、「単墓制」は

主に東日本などで、お墓は一つで「詣り墓」と「埋め墓」の区別がない場合を指すようです。

と言っても、明治大正以降など火葬が一般的になってからは、西日本などでも新しく作る

お墓の場合は、「単墓制」が一般的になっているような気もしますが、実際のところはどう

なんでしょうか?(調べてみましたらば、香川県三豊市仁尾町家の浦地区では、現在でも

続いているようです。「土葬」のような気がしますが、違っていたらごめんなさい、、。)



両墓制分布図



「両墓制の分布(佐藤米司氏による)」(『図説 民俗探訪事典』)

ブログbokuhakaze3、http://blog.zaq.ne.jp/bokuhakaze3/article/1000/より

(西日本というよりも近畿と中京、関東と甲信越なんですね、、、。瀬戸内海の西半分と

九州にないのは意外でした、、、。北海道は地図もありません、、、。) 





「埋め墓」の例






香川県多度津町、塩飽諸島の佐柳島(さなぎじま)長崎の「埋め墓」でしょうか、、、。









佐柳島のすぐ近くの高見島


手前が「埋め墓」、奥の立派な墓石が「詣り墓」でしょうか?手前の「埋め墓」の周囲は砂地

で、羽咋の折口信夫父子墓を想わせます、、。








このブログの、『産屋』の補足 の記事の中の胞衣(えな)」(胎盤)についての文章で、



   しかし、日本列島に関しては、ケガレへの対処の仕方に列島東部と西部とで

   違いがあったことを明らかにした研究が行われています。

    (中略)

   縄文時代から見られるやり方で、胞衣を竪穴式住居の入口の地面に埋めてしま

   います。子供が赤子のうちに死んでしまった場合も同じ扱いをしていたようで

   すが、現在でも、胞衣をなるべく人が踏むことの多い場所に埋める習俗があり

   ます。戸口や、道が交差している辻にわざわざ持って行って埋めることまで行

   われています。これに対して、住居から離れた場所に「産室」を設け、「産屋」

   を建て、その床下を深く掘って胞衣を埋めるというやり方をしている地域があ

   ります。

   とにかく、胞衣をなるべく遠くへ持って行って埋めることが重要であり、例

   えば室町時代の将軍家の場合は山中に埋めに行かせたりしています。

   木下氏はこの二つのやり方のうち、前者を縄文的、後者を弥生的と呼んでお

   り、前者はケガレに対して神経質ではなく、むしろおおらかであり、後者は

   敏感でケガレを忌避する傾向が強いと捉えておられます。



とある引用文と、東日本と西日本の違いという意味では、何かしらの関連があるのかない

のか、、、?(なんだか範囲が微妙にズレているような気もする、、、。)



土葬の「埋め墓」の場合、その「ハカ」の上に「設(しつら)え」として、「竹の囲い」や「喪屋」

を作る風習があったようです。設計士の私からすると、『喪屋』と『産屋』は、とても似

ています、、。

家形?の「竹の囲い」は「サギチョウ」または「サギッチョ」または「シズクヤ」または「タマヤ」

などと呼ばれて、「サギチョウ」は漢字で書くと「左義長」と書くようです。垣根のような

「竹の囲い」は、「イヌハジキ」または「イガキ」などと呼ばれて、「イガキ」は漢字で書くと

「忌垣」と書くようです。(どれも竹などによる簡略な作りですので、四十九日も過ぎると

壊れてしまい、最後、はずされてしまって燃やされたりするようです、、、。ですから、

佐柳島長崎の「埋め墓」の写真には、何も写っていないのかも知れません、、、。)



イザナギがイザナミを連れ戻そうと黄泉の国に行ったのは、この四十九日の間の事だった

ようです。(大和朝廷に取り込まれる時に、それまで出雲にはなかった?「穢れ」が現れ

たという説もあって、このあたりは難しいです、、、。)



「忌垣」といえば、東京の青山霊園には見上げるような日清・日露戦争の頃の大将や中将の

お墓が(巨大な石)、たくさんあったりするのですが、、、。僕が一番好きだったのは、

茶道家の塩月弥栄子さんのお墓でした。下は土のままで、周囲に竹の簡略な「忌垣」が周し

てあり、質素な五輪の塔があるだけなのです。さすがに古式や古風が判っていらっしゃる

というか、竹の「忌垣」は何年かすると直さなければいけないと判っていても、そのような

「設え」を選ばれたのだと思います。青山霊園に行きましたら、是非探してみてください。





追記  塩月弥栄子さんのお墓は、前にネットで写真を見たような記憶があったのですが

    今回探したのですが、見つかりませんでした、、、。

    青山霊園有名人の墓 http://graveofcelebrity.web.fc2.com/ いくら探しても

    塩月家のお墓どころか、五輪の塔に「忌垣」のお墓が見つからない、、、。困った

    、、、。自分の感違いだろうか、、、? 塩月家のみなさん、申し訳ありません。

    (塩月家のお墓というだけで、あまりにも趣味が良くて品もあるので、てっき

    り塩月弥栄子さんのデザインしたお墓だと思ってしまったのかも知れないので

    す。僕がそのお墓を見たのは30年以上前で、その頃まだ塩月弥栄子さんはご存

    命中なのです、、、。重ね重ね、失礼なことで申し訳ありません、、、。)



追記の追記  熱海の近くの伊豆山というところに興亜観音という観音様があって、東京

       裁判の後になくなった方々の実際のお墓があります。興亜観音が「埋め墓」

       でしたら、靖国神社は「詣り墓」ということになるのでしょうか、、、?

       一般的に、「埋め墓」よりも「詣り墓」のほうが、お金がかかっていて立派な

       ようなんです、、、。
  






           年末年始は東京の実家ですので、更新はしばらくありません。




追記の追記の追記   三河湾の三ヶ根山スカイラインにあるお墓は、東條英機さんの

           お墓だとばかり思っていたのですが、『殉国七士廟(じゅんこ

           くななしびょう)』と言って松井石根さんなど七人の遺骨が分

           骨されていて、『殉国七士墓』とも言うようです。




4つめの追記     稲田道彦さんと言う方の『瀬戸内海の両墓制を訪ねる旅』という

           Pdfを見つけました。最上孝敬さんという方の、1980年の全国両

           墓制分布図が載っていますので、旧版『詣り墓』附図と較べてみ

           て下さい。広島県と大分県のあたりがだいぶ違います。「両墓制

           の分布(佐藤米司氏による)」(『図説 民俗探訪事典』)は、

           旧版『詣り墓』附図に近いのかも知れません。(1950年代?)




http://www.kagawa-u.ac.jp/setouchi/h2021houkoku11inada.pdf


              

            
















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「黄泉比良坂」(よもつひらさか)

2015-12-10 12:43:40 | 日記
こうなったら、「黄泉比良坂」(よもつひらさか)について書くしかあるまい、、、。


島根県松江市東出雲町揖屋(いや)の国道9号線から、すこし小さな沢に入ったところに

古事記や出雲神話に出てくる「黄泉比良坂」とされている「坂」がある。「坂」と言っても、今

となっては、沢から裏手の民家に抜ける、「こんもりした森のような小山」を越えるだけの

道のようなものか、、、。(道と言っても小高い「峠」のようになっている。その入口まで

の道は、こんもりとした森に沿っている「みの手」です。)









左上を斜めに走っているのが国道9号線。中海の南西、本当に小さな沢で、近くに普通の

民家も迫っていますし、堰堤と緑色に見えますが小さな溜池も見えます。




イザナギ(伊耶那岐)は死んでしまったイザナミ(伊耶那美)に逢いたくて黄泉の国に

行きます。(この時、イザナミが「な見たまいそ。」と懇願するのに、イザナミは我慢でき

ずに見てしまうのです。これが決定的、、、。)ですが、イザナミは既に死んでしまって

いるので、醜い姿「穢れ」を見られてしまった羞恥から、逆にイザナギを追いかけて復讐?

しようとします。逃げるイザナギは、来る時にはなかった坂「黄泉比良坂」を、転げ落ちる

ようにして逃げます。行きには「坂」はありません。「坂」が現れるのは帰りです。この時、

追手がそれ以上に追いかけてこないように、「千引の岩」という大きな岩を置いて、追手を

遮ります。




「みの手」からの入口にある標柱と注連縄。(後世の人為的なものか?)





これは小高い「峠」にさしかかる伊賦夜坂(いふやさか)? (どこまでが「黄泉比良坂」で、

どこからが「伊賦夜坂」か?は、ちょっと難しい、、、。)





「千引の岩」?(これも自然石などではなくて人為的なもの?)





ルース・ベネディクトの『菊と刀』に出てくる、日本人の「恥の文化」の原型が、この

神話の中にあるという人もいるようですが、設計士の僕にとっては、行きにはなかった

「坂」が帰りに現れる、というのが大問題なんです。つまり


   『通りゃんせ』


  通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの 細通じゃ

  天神様の 細道じゃ ちっと通して 下しゃんせ

  御用のないもの 通しゃせぬ

  この子の七つの お祝いに お札を納めに 参ります

  行きはよいよい 帰りはこわい

  こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ

                
           作詞 野口雨情? 作曲 本居長世
 


『行きはよいよい、帰りはこわい』とは、どういう事か?なのです。




「ザ・フォーク・クルセダース」の北山修さんの『悲劇の発生論』にふれている藤崎康彦

さん(跡見学園女子大学)という方の、『ミソジニーの観点から見る日本文化の深層 -

SUCRA』という論文があります。


   https://ci.nii.ac.jp/els/contents110009605165.pdf?id=ART0010066734
  
  
  

「ミソジニー」とか「産屋」とか「母権制から父権制への移行」、木下順二さんの「夕鶴」なども

出てきて、難しい論文です。(「ミソジニー」は女性嫌悪?女性蔑視?女性賎視?内田樹さん

によると一時期のハリウッド映画のほとんどは「ミソジニー映画」なんだそうです、、。)




追記  不親切な記事で申し訳ない。「夢」と「黄泉比良坂」は、何か関係がありそう、、。

    「坂」は「境」で、行きと帰りで違うのは「一方通行路」や「非対称性」の問題とも関係

    がありそうな気がするのですが、まだまだ考えがまとまっていないのです、、。



追記の追記 イザナギとイザナミは兄妹相姦の話かも知れません、神話は難しい、、、。

       「異類婚姻譚」なんて言われると、ますますチンプンカンプン、、、。 



追記の追記の追記   どうも、行きの峠までの上りが「黄泉比良坂」で、峠の先の下りが

           「伊賦夜坂」のようです。だとすると青木繁の絵の「黄泉比良坂」は

           、「黄泉比良坂」ではなくて本当は「伊賦夜坂」になってまうのかも
      
           、、、、。




               ・





追記のよっつめ  沖縄では「ひら」(平?比良?)は「上り坂」で、「坂」は「下り坂」の

        ことなんだそうです、、、。「比良坂」は上りと下りのワンセット?









   
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早稲田麻雀大会

2015-12-10 09:03:46 | 日記








いつのまにか、30年以上前に住んでいた早稲田の木造アパート(例の無頼の生活をして

いた、、、)で麻雀大会をする話は進んでおり、麻雀さえ出来ればいいM野君やS君にKu田

君、今は横浜で中学校の美術教員をしているY津さん、中には函館の下請け協力会の電

気屋のS井さんまで集まり始めていて、総勢で2卓は囲める10人程が集まりだしていたの

であった、、、。S君が名付け親の『○○山房』のアパートは、2階に上がってみると玄

関の脇に「こんな横長の受付みたいな窓あったかなぁ?」という感じの窓があったけれども

、部屋数はあるので2卓は十分に囲める、、、。30年ぶりなのに、何故か雀卓と雀牌

は、すでに2卓分がアパート内に用意されており、奥の部屋では何人かが雀卓を組み立て

たりの準備をし始めている、、、。(みんな、こういうのはテキパキと早いのだ。)

奥の部屋は北側で、さすがに麻雀をするのには暗くて、牌の字が読みずらくてダメだとな

って、照明を点けようとしたが、点かない。電気屋のS井さんに頼んで、電源を切って貰

って僕が電球を調整する。S井さんは「あいよっ!」と手馴れたものだ。そのとき窓の外を

見たら、何だか外壁の色が違う、、、。赤いエンジ色なのだ。それに、だいいち3階建て

じゃなくて、木造なのに4階建てになっている、、、。屋根は桐生の織物工場のように

ノコギリ状のギザギザだ、、、。







「おかしいな?」と思って、外に出ようとしたら建物の中だったはずの階段が、建物の外に

突き出していて、華奢なアルミのササラ桁1本の両側に踏み板が交互に1枚ずつ出ている

のだか、肝心の手摺りが付いてないので、グラグラしているし落ちたら危なくてしょうが

ない造りなのだ。

それでも下に降りて、『○○山房』のあった『○○坂』の周辺を少し歩いてみたら、その

赤いエンジ色の4階建ての建物は、どう見ても『○○山房』じゃない、、。1階にあった

洋品店もラーメン屋も豚カツ屋もないし、向いのパン屋の3軒長屋もない。建っている場

所が200メートルくらいは、元の『○○山房』より坂の上じゃないか、、、!!!

「こりゃ大変だ。」と思って、件の華奢なアルミの階段をのぼってみると、もう麻雀の音は

ジャラジャラと始まってしまっている、、、。








みんなに「『○○山房』じゃないよっ!大変だよ!」と言っても、もう麻雀始めちゃってい

るから「だから何なの?もう麻雀始めちゃったよ。何とかならないの?何とかなるんでない

の?」モード。(麻雀始めちゃうと、すでに普段とは人格が変わってしまっている、、。)

そこに下の洋品店のおばさんらしき女性が上がってきて(店はもうないし、例の階段をど

うやって登ってきたのかが不思議。)、「あんたら、大きな音を出して冗談じゃないよ!

勘弁してよ!やめて頂戴!」と、怒鳴り込んできた。そこに、やはり例の階段を上がって

来た郵便局の男の人が、あて先がカタカナ名前の郵便物を僕に渡そうとする。「やっぱ

り、ここは『○○山房』じゃないんだ。ヤバイ、どうしょう、、、!」と、僕はますます

1人で焦る、、、。


それでも、みんなは麻雀をやめようともせず、「お前がなんとか対応しろ」モード。こっち

は「なるべく大きな音とか声を出さないように気をつけますし、なるべく早く終わらせる

ようにしますから。」とペコペコ。それでもカタカナ名前の本当に住んでいる人(人達)

が帰ってきたら大変な事になってしまう。ますます、僕だけが焦り続ける、、、。


そのうち、S君かM野君のどちらかが「下のラーメン屋か豚カツ屋にも気を遣って、店屋物

を人数分とってやればいいんじゃないの、、、?」とか言い出す始末。でも、それって僕に

「雀飯」の手配をしろって言う、体の良い口実じゃないか、なんて勝手な奴らなんだ!!!



と、言うところで夢から醒めた、、、。





    (夢の中なのに、あんなに麻雀の好きだった幸田君は出てきません、、、。)





追記  2階から建物の1階に降りようとした時に出てきた「華奢なアルミのササラ桁1

    本」の不思議な階段は、なんだか「黄泉比良坂(よもつひらさか)」のようです。



追記の追記 『2階に上がってみると玄関の脇に「こんな横長の受付みたいな窓あったか

      なぁ?」という感じの窓があったけれども』とあるのは、目白の吉村事務所の

      玄関を入ってすぐ左の受付事務の窓口なのかも知れない、、、。今は吉村

      順三ギャラリーの為に撤去されてしまっているけど、、、。




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