北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

伝馬町牢屋敷と市ヶ谷監獄 その12

2018-05-31 10:13:01 | 日記


市ヶ谷監獄署の、伝馬町牢屋敷や長崎の桜町牢のような、建物の配置や室名や門の名前が

判る図面は見つかりませんでした。おそらく明治政府が必要に迫られて、短期間に木造で

作ったのではないでしょうか? 中で働いている人も、明治4年の解放令(太政官布告)の

後ですから、伝馬町牢屋敷の頃のようにはいかなかったはずで、最初は混乱の中でスター

トしたのかも知れません、、、。





東京監獄(市ヶ谷刑務所・市ヶ谷監獄 )の図面は一枚だけ見つかりました。







事務所から中央・検身所に行くのに、細くてクランク状の廊下があるのですが、、、





残念ながら、何も書いてありません、、、、。(『中門』とか、、、)



外観の写真らしきものも、1枚見つけましたが、、、





平面図と配置が合っていないように見えます、、、、。門と塀以外の建物は、やはり木造

のように見えます、、、。





19世紀の終わりに出来た巣鴨監獄です。関東大震災で壊れてしまった、当初の建物配置と

思います(最初の建物は、やはりパノプテコン・タイプだったようです。)。上の線路と駅

は山手線と大塚駅。右下は護国寺です。






江戸川橋から講談社の前の坂道が、護国寺に突き当たるところに『広小路』があります。

まだ不忍通りになって、目白通りまでつながっていません。護国寺の豊島岡墓陵の東に、

巣鴨監獄まで大きく湾曲してつながる、『坂下通り』が出来たばかりと思うのですが、

監獄に突き当たるところに、やはり『広小路』のようになっている空地?があるように見

えます。江戸時代までもそうですが、寺院とか牢屋敷・監獄の場合、何故か『広小路』が

あるようです、、、。(写真を撮るときの『引き』の為でも、橋の袂「たもと」でもなけ

れば、防火帯でもないんでしょうし、上野広小路とかは電気回路の『コンデンサー』みた

いな、群集緩衝帯・群集溜め場のようなものなんでしょうか? 北京の『天安門広場』とか

、モスクワのクレムリン宮殿の『赤の広場』も『広小路』の一種なんでしょうか、、、?)







              長かった伝馬町牢屋敷と市ヶ谷監獄、これで終わりです。








追記 腎臓の糸球体とボーマン嚢です。上にGlomeruius、中にcapsule とあります。

   


   ボーマン嚢からの管に、piniferous tube (近位尿細管)とあります。



   拡大して、90°向きを変えました。


   


   糸球体とボーマン嚢が巣鴨監獄に、近位尿細管が坂下通りに見えませんか?






              
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伝馬町牢屋敷と市ヶ谷監獄 その11

2018-05-31 10:12:19 | 日記



市ヶ谷監獄署の建物の配置と平面なんですけど、江戸の伝馬町牢屋敷の時代の配置と

平面を、かなり引きずっていると言うか、相当に後ろ髪を引かれている感じなんです。

(『署』が付くくらいですから、やっぱり当時の警視庁、つまり内務省の管轄だったん

でしょうか?)




この地図だけ見ると、主たる入り口は図の右上の、現在の曙橋・旧フジテレビ下から、

抜け弁天・余丁町に上がっていく坂道(安養寺坂)の途中(31、19と数字の読める辺り)

のようにも見えるのですが、、、。






実は他の図に、この31、19と数字の読める辺りに『不浄門』とある図があって、これは

伝馬町牢屋敷の裏門と同じなんですね、、、。(なんだか、どちらも『刑場』のすぐ近く

みたいで、、、判りますよね、、、。) つまり、ここは表門のように見えて、実は

市ヶ谷監獄署の裏門なんだと思います。それでは本当の表門は、この図のどこなんで

しょうか、、、?




下の図の、市ヶ谷監獄署の敷地の南西(左下、自証院の方角)に、丘陵の端が2段になって

いる段丘の、いかにも幅の狭そうな坂道を登ったところに、監獄署の敷地から『出枡形』

(でますがた)のように出っ張っている、何かの『守衛所』(?)のような建物が1軒あるので

すが、どうやら表門(?)はこちらのようなのです。(小日向の切支丹屋敷を、そのまま大き

くしたような感じ、、、?)






下の谷筋から段丘に沿って登って来ると(『その10』の記事の最初の明治のgoo地図の、

富久町1番地と市谷谷町97番地の間の、民家と民家に挟まれた細い路地みたいな、台地

に登っていく坂道を入っていくみたいなんですけど、判りますか、、?)最後に『守衛所』

(?)のところをグルっとまわって入り口、逆に台地の上の安養寺坂の途中からは、畑の畦

道みたいな道を、やはりグルっと遠回りして入り口に辿り着いたんでしょうか、、、?




伝馬町牢屋敷の図面です。黒くて太い線は『練り塀』と思います。右上が刑場で、上の

真ん中が裏門(不浄門)で、東牢のほうからも埋門から繋がっています。(牢名主は、鼾

「いびき」が大きすぎて迷惑な囚人は、私的な刑「リンチ?」のようにして、石出帯刀に

も内緒で牢外に『出してしまう』ことが出来たようなんです、、、。)






図の右上、刑場に通じる両側が、おそらく塀に挟まれた幅の狭い「斜めの通路」がありま

す。立会人とか見届け人は帰って来れますが、ご本人にとっては、2度と引き返して帰っ

て来れない『一方通行路』です。でも、この図から判るのは、『刑場』というのはどう見

ても『娑婆』なんですね、、、。まるで『娑婆』に連れ戻してから執行しないと刑になら

ないとでも言わんばかりです、、、。無理やり「斜めの通路」を造っています、、、。




市ヶ谷監獄署の右半分を拡大してみました。
                                                                            ・



一番左上、『市』の文字の上に、ほぼ正方形の『刑場』らしき場所があるのですが、裏門

の入ったところから、やはり『斜めの通路』があります。どうやらこちらは、ご本人に

とっても『一方通行路』ではないようです、、、。(『・・・・・』は『練り塀』ではな

くて、何かの『柵』のようなものでしょうか、、、?)




この『斜めの通路』なんですけど、なんだか、このブログの記事『Plaça Sant Felip

Neri (サン・フェリペ・ネリ広場)』の『S字の細い路地』Carrer del Montjuic del

Bisbe (司教のモンジュイックへの道?)を、想い出してしまいました、、、。

















                  伝馬町牢屋敷と市ヶ谷監獄 その12 につづく










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伝馬町牢屋敷と市ヶ谷監獄 その10

2018-05-31 10:11:22 | 日記



goo地図に明治の古地図というのがあったので、市ヶ谷監獄(左)と市ヶ谷監獄署(右)の部

分を拡大してみました。どちらも建物の配置はありません、、、。







左に『警視庁用地 東京監獄』とあります。警視庁は当時は内務省でしょうか?

右に『監獄署』とあり、これは『市ヶ谷監獄署』のことで、法務省でしょうか?


どうやら内務省と法務省の、明治政府初期の管轄の変遷と、もともと拘置所と刑務所が

別々でなかった(?)ものを、どちらをどちらがどう管轄するかが混乱してしまったのか、

今となっては判りずらくなってしまっている原因なのかも知れません、、、。

(今では拘置所と刑務所はどちらも法務省の管轄のはずで、警察署の留置場はもちろん、

全国の都道府県の警視庁または警察庁の管轄で、今に続く『代用監獄』などの悪癖・悪習

の元凶になった、明治初期の混乱と言う事になるんでしょうか、、、?)







無謀にも、年表を作ってみようと思います。 (Mは明治 Tは大正 Sは昭和)






 
    左に寄せてあるのは     真ん中は        右に寄せてあるのは
    市ヶ谷監獄または      一般的なニュース    伝馬町牢屋敷と市ヶ谷
    東京監獄・市ヶ谷刑務所   など          監獄署の関連と言うこ
    の関連                      とにします

      
                               

江戸幕府                         江戸の伝馬町牢屋敷  
                                                                                     ・
                                  


1865年              パリのラ・サンテ監獄
                 が運用開始する

                ・
                 


1868年              明冶維新・明治元年
 M0

1870年 鍛冶橋に未決囚収容の
 M3  監倉事務取扱所を設置
    (今の東京駅の近く)

1871年              解放令(太政官布告)
 M4
                ・ 解放令 明治4年8月28日


 
1875年                            この年で伝馬町牢屋敷
 M8                            は使われなくなった?

                             ・

                              ・ 牢屋敷の跡地は買い手も引き取り手もなく
                               この図の左下空き地右下に大安楽寺など
                               のお寺が出来ただけ、、、?


1876年 鍛冶橋監獄署に変更
 M9 警視庁・内務省に移管


1877年               西南戦争
 M10
                                                                               ・



1879年              東京集治監(内務省)が  高橋お伝八代目山田浅右
 M12              小菅に設置された(東京  衛門の弟吉亮により斬首
                 拘置所の前身)      刑とされるが、これは市
                             ヶ谷監獄ではなく市ヶ谷
                             監獄署ではないのか、、
                             、、?つまり1879年(明治
                             12年)までには、すでに
                             市ヶ谷監獄署は市ヶ谷に
                             あった、、、?
                             だとすれば伝馬町牢屋敷
                             から市ヶ谷監獄署への時
                             間的な連関は割りとスム
                             ーズになるんです、、。

                             ・
  
                             高橋お伝 辞世歌
        
                              暫くも望みなき世にあらんより

                               渡し急げや三つの川守
                

1889年 M22 明治憲法(大日本帝国憲法)公布 これ以前に

       法務省とか司法省ってあったんでしょうか、、、?



                 1903年(M36)までは、この状態のはず、、、

                ・

 
1903年  鍛冶橋監獄署が内務省
 M36 (警視庁)から司法省
    に移管されて東京監獄
    と改称、市ヶ谷に移転

   ・




                1903年(M36)~1910年(M43)の8年間のあいだ
                東京監獄(市ヶ谷監獄)と市ヶ谷監獄署は並存
 
                
                


 
1910年                後藤慶二・豊多摩監獄   市ヶ谷監獄署は、この
 M43              (中野)の建築開始     年まで市ヶ谷にあった?



                 1910年(M43)以降、右の市ヶ谷監獄署跡地は
                   払い下げになって宅地化されたみたいです。

                ・


1911年               大逆事件
 M44

1915年              豊多摩監獄(中野)完成
 T4 
                ・                                    東京監獄と同じく、パリのラ・サンテ監獄と同じ
                           パノプテコン・タイプで設計されているようです。
 

1922年 東京監獄を市ヶ谷刑務所
 T11 に改称

1923年               大杉栄パリのラ・サンテ  
 T12               監獄に収容される

                 関東大震災・甘粕事件
 

1935年              巣鴨刑務所(旧巣鴨監獄)
 S10               が府中市に移転し「府中
                 刑務所」となる

1937年 市ヶ谷刑務所(旧東京監獄)
 S12 は巣鴨刑務所に移転

1945年              戦争に負けて巣鴨刑務所は  
 S20               巣鴨プリズン・東京裁判


1949年 市ヶ谷刑務所跡地の南1/3に
 S24  東京都立小石川工業高等学校
    が文京区林町より移転。
    2010年より都立総合芸術高校


1983年              中野刑務所(旧豊多摩監獄)
 S58                は廃止・閉鎖されて、後継
                 刑務所は北海道月形刑務所



                  


                 後藤慶二さんの設計した旧豊多摩監獄表門
  
                 跡地の公園に保存されています。
                 





                  伝馬町牢屋敷と市ヶ谷監獄 その11 につづく







追記  この年表は、あちこち訂正したり、追加で書き込みしたりするかも知れません。






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伝馬町牢屋敷と市ヶ谷監獄 その9

2018-05-31 10:10:12 | 日記



最近、○○入学で報道されている○○医科大学は、私の通った小中学校のすぐ近所でして

年に1回の学園祭では、悪ガキどもは、『すっげぇーホルマリン漬けが見られる!』とか

言って行くのですか、高さ1メートル以上の巨大な牛乳瓶のようなガラス容器の内容物を

見た後では、晩御飯は美味しくないし、将来お医者さんになろうなどとは決して思わない

のでした、、、。




この地図の左端が、その○○医科大学なのですが、中央の『総合芸術高校』の上に、そこ

だけ幅が不自然に広い『広小路』のような道路があり、さらにその上に、そこだけ傾いた

こまかく住宅地に分割された正方形に近い区画があります。(西北金物店のある1画。右

上は新宿区立余丁町児童遊園と、ズルズルっと繋がっています、、、。)








                これが、その正体なのですが、、、


                



『東京監獄』とありますが、元の『市ヶ谷監獄』です。(『自証院』というお寺の位置で

わかりますよね。)明治44年の大逆事件で、幸徳秋水さんや管野スガさんが処刑されたの

は、この監獄と思います。(少し小高い丘になっています。関東大震災の前に大杉栄さん

も入っていたはずです、、、。)




ですが、紛らわしいのですが、この『市ヶ谷監獄』とは別に『市ヶ谷監獄署』というのが

その隣にあったのです、、、。2つ並んでいる地図の、その部分を拡大してみました。








この地図では、右が『市ヶ谷監獄』になっています。『東京監獄』と『市ヶ谷監獄』と

『市ヶ谷監獄署』と、もうひとつ『市ヶ谷刑務所』もあって、区別が難しいです、、、。




この地図では『市ヶ谷監獄署』になっています。(『自証院』が左の端なので、

『東京監獄』つまり『市ヶ谷監獄』は、この地図では左の方に外れています。)







おそらく最初に右の『市ヶ谷監獄署』が出来て、そのあと左の『市ヶ谷監獄』が出来て、

しばらくは両方とも並んであって、その後、右の『市ヶ谷監獄署』がなくなって、残った

左の『市ヶ谷監獄』が、『東京監獄』と呼ばれたり『市ヶ谷刑務所』と呼ばれたりしたの

ではないかと思うのですが、どうでしょうか?






                       伝馬町牢屋敷と市ヶ谷監獄 その10につづく








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六角獄舎つづき

2018-05-31 10:08:57 | 日記


六角獄舎の配置図などの図面は、インターネットの中ではなかなか見つかりません。

『京都御役所向大概覚書』という文書?に配置図があるようなのですが、、、。



『江戸時代の刑罰施設』というサイト https://www2.hp-ez.com/hp/bunsei/page15/1?

に、六角獄舎について次のような記述があります。





 牢屋敷の規模について『幕末京都史跡大事典』「92 六角獄舎の跡」に、

『雑色要録』から次のように引用紹介している。



   牢屋敷地面建物間数之事
 
  宝永六丑年、三条新地ニ被造立之事
 
  一、牢屋地面 東西三十八間、南北二十九間、此坪数五千百弐坪
 
  一、練塀之内 東西三十一間、南北廿四間、 此坪数七百四十四坪
 
  一、本牢 東西八間、南北五間半
   (内訳は以降略)
 
  一、切支丹牢、東西五間半、南北拾壱間
 
  一、女牢  東西四間半、南北五間
 
  一、上り場 東西五間、南北六間
 
  一、口聞所 東西四間半、南北二間 畳数 十四畳
 
  一、拷問所 壱間四方の拷問所
 
  一、木馬弐ヶ所
 
  一、会所  東西二間、南北六間
 
  一、番所  東西二間半 南北五間半”
 
  その他、中門、表長屋門、牢賄所、外番所、簀戸門などがあったと記されている。




 規模を較べると


江戸 伝馬町牢屋敷   2618坪

長崎 桜町牢       744坪

京都 六角獄舎     5102坪


ですから、全体の敷地自体は相当に広いようなのですが、練塀に囲まれている牢屋の部分

は747坪ですから、練塀に囲まれた部分の面積比では、桜町牢の練塀内の2倍くらい、伝

馬町牢屋敷の練塀内の半分くらいの面積でしょうか、、、?



最後に『中門』とあります、、、。



(どうして江戸では『中門』が出てこなくて、京都と長崎では『中門』なのかは良く判り

ません、、、。『木馬』『簀戸門』と言うのも何の事なのか良く判りません、、、。)





このブログの『一条戻橋』の記事に


  でも『女大工』が一条戻橋の近くで、『青屋大工』が壬生寺の近くって事は、両方と

  も堀川の近くで、今だったら2kmちょいしか離れてないんです、、、。


と書いたんですけど、六角獄舎はちょうど一条戻橋と壬生寺の中間の、壬生寺寄りの立地

で、やっぱり堀川の西側なんです、、。『青屋大工』が六角獄舎の造作や補修に関わって

いたとすれば、相当な職住近接だったはずです、、、。



(二条城と西本願寺が、どうして堀川の西側なのかは、いまだに良く判らなくて謎なんで

す、、、。二条城の場合は、御所に対抗する近くて広い敷地が堀川の西側にしかなかった

からなのか、、、?はたまた、そこに住んでいた人々を強制的に追い出しやすかったから

なのか、、、?西本願寺の場合は、やっぱり堀川の西側が好都合な別の理由があったのか

、なかったのか、、、?西本願寺には、どうして最古の能舞台があったり、飛雲閣みたい

な数奇屋建築が建っていたりするのか、、、?白書院とか黒書院って、お坊さんが考え付

いたりしたんでしょうか、、、? )







                  伝馬町牢屋敷と市ヶ谷監獄 その9 に戻ります






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