市ヶ谷監獄署の、伝馬町牢屋敷や長崎の桜町牢のような、建物の配置や室名や門の名前が
判る図面は見つかりませんでした。おそらく明治政府が必要に迫られて、短期間に木造で
作ったのではないでしょうか? 中で働いている人も、明治4年の解放令(太政官布告)の
後ですから、伝馬町牢屋敷の頃のようにはいかなかったはずで、最初は混乱の中でスター
トしたのかも知れません、、、。
東京監獄(市ヶ谷刑務所・市ヶ谷監獄 )の図面は一枚だけ見つかりました。
事務所から中央・検身所に行くのに、細くてクランク状の廊下があるのですが、、、
残念ながら、何も書いてありません、、、、。(『中門』とか、、、)
外観の写真らしきものも、1枚見つけましたが、、、
平面図と配置が合っていないように見えます、、、、。門と塀以外の建物は、やはり木造
のように見えます、、、。
19世紀の終わりに出来た巣鴨監獄です。関東大震災で壊れてしまった、当初の建物配置と
思います(最初の建物は、やはりパノプテコン・タイプだったようです。)。上の線路と駅
は山手線と大塚駅。右下は護国寺です。
江戸川橋から講談社の前の坂道が、護国寺に突き当たるところに『広小路』があります。
まだ不忍通りになって、目白通りまでつながっていません。護国寺の豊島岡墓陵の東に、
巣鴨監獄まで大きく湾曲してつながる、『坂下通り』が出来たばかりと思うのですが、
監獄に突き当たるところに、やはり『広小路』のようになっている空地?があるように見
えます。江戸時代までもそうですが、寺院とか牢屋敷・監獄の場合、何故か『広小路』が
あるようです、、、。(写真を撮るときの『引き』の為でも、橋の袂「たもと」でもなけ
れば、防火帯でもないんでしょうし、上野広小路とかは電気回路の『コンデンサー』みた
いな、群集緩衝帯・群集溜め場のようなものなんでしょうか? 北京の『天安門広場』とか
、モスクワのクレムリン宮殿の『赤の広場』も『広小路』の一種なんでしょうか、、、?)
長かった伝馬町牢屋敷と市ヶ谷監獄、これで終わりです。
追記 腎臓の糸球体とボーマン嚢です。上にGlomeruius、中にcapsule とあります。
ボーマン嚢からの管に、piniferous tube (近位尿細管)とあります。
拡大して、90°向きを変えました。
糸球体とボーマン嚢が巣鴨監獄に、近位尿細管が坂下通りに見えませんか?