さて、この「中世鎌倉街道」と「西向天神」、どっちが先で、どっちが後なんでしょうか?
おそらく天神様が先にあって、街道は後でしょう、、、。でも、街道になる前の道はあっ
たんでないでしょうか? じゃぁ、街道ではなかった「ただの道」が「街道」になるって、どう
言う事なんでしょうか?その「ただの道」って、どことどこが繋がっていたんでしょうか?
たしか山折哲雄さんだったと思うのですが、道には2種類の道があると言うのです。
「みのて」と「なわて」
です。「みのて」は「みの手」もしくは「蓑手」?(私の勝手な当て字です。スイマセン、、、)
で、「なわて」は「縄手」で間違いなさそうです、、、。(ほかにも「大手」とか「からみ手」と
か「勝手」とかいろいろありそうですが、ここでは省略します、、。) 「みの手」は等高線
に沿った山の端の道などのことらしく、「縄手」は文字通り、縄を引っぱったような真っ直
ぐな「棒道」と思います。
「みの」と言えば、将棋の「みの囲い」を想い出すのですが、こちらは「蓑」でなくて「美濃」で
「美濃囲い」のようです。でも、どうして「美濃囲い」って言うんでしょう? 身体を覆う方
の「みの」なら、「美濃」でなくて「蓑」でないのかな? 「蓑」じゃ弱そうだからかな?
将棋の「美濃囲い」

「西向天神」の前の「中世鎌倉街道」は、どうみても「みの手」で間違いなさそうです、、、。

「中世鎌倉街道」は鎌倉時代に「いざ鎌倉」のために作られた(整備された?)のだと思います
が、どうやら、それまでバラバラだった、あちこちの「みの手」の中から、下野(しもつけ)
や奥州などに最短で行けるものを選んで、その間(主に台地なのですが、、、)を「縄手」で
結んで出来ているようなのです。つまり、「中世鎌倉街道」は、「みの手」と「縄手」の組み合
わせで出来ているのです。(「みの手」と「縄手」の境には「坂」がありそうです、、、。)
江戸時代?の「西向天神」(左が北、右が南で靖国通り、千駄ヶ谷「鳩森神社」)

左の北に行くと、「中世鎌倉街道」は、どこに行くのでしょうか?
面影橋から、雑司が谷の「鬼子母神」に行くのです、、、。



「鳩森神社」、「西向天神」、「鬼子母神」は三点セットなのです、、、。
なんだか、このブログの、『「向う三軒両隣り色彩差分法」について 』みたいだ、、、。
中世鎌倉街道 その5 につづきます、、、。
おそらく天神様が先にあって、街道は後でしょう、、、。でも、街道になる前の道はあっ
たんでないでしょうか? じゃぁ、街道ではなかった「ただの道」が「街道」になるって、どう
言う事なんでしょうか?その「ただの道」って、どことどこが繋がっていたんでしょうか?
たしか山折哲雄さんだったと思うのですが、道には2種類の道があると言うのです。
「みのて」と「なわて」
です。「みのて」は「みの手」もしくは「蓑手」?(私の勝手な当て字です。スイマセン、、、)
で、「なわて」は「縄手」で間違いなさそうです、、、。(ほかにも「大手」とか「からみ手」と
か「勝手」とかいろいろありそうですが、ここでは省略します、、。) 「みの手」は等高線
に沿った山の端の道などのことらしく、「縄手」は文字通り、縄を引っぱったような真っ直
ぐな「棒道」と思います。
「みの」と言えば、将棋の「みの囲い」を想い出すのですが、こちらは「蓑」でなくて「美濃」で
「美濃囲い」のようです。でも、どうして「美濃囲い」って言うんでしょう? 身体を覆う方
の「みの」なら、「美濃」でなくて「蓑」でないのかな? 「蓑」じゃ弱そうだからかな?
将棋の「美濃囲い」

「西向天神」の前の「中世鎌倉街道」は、どうみても「みの手」で間違いなさそうです、、、。

「中世鎌倉街道」は鎌倉時代に「いざ鎌倉」のために作られた(整備された?)のだと思います
が、どうやら、それまでバラバラだった、あちこちの「みの手」の中から、下野(しもつけ)
や奥州などに最短で行けるものを選んで、その間(主に台地なのですが、、、)を「縄手」で
結んで出来ているようなのです。つまり、「中世鎌倉街道」は、「みの手」と「縄手」の組み合
わせで出来ているのです。(「みの手」と「縄手」の境には「坂」がありそうです、、、。)
江戸時代?の「西向天神」(左が北、右が南で靖国通り、千駄ヶ谷「鳩森神社」)

左の北に行くと、「中世鎌倉街道」は、どこに行くのでしょうか?
面影橋から、雑司が谷の「鬼子母神」に行くのです、、、。



「鳩森神社」、「西向天神」、「鬼子母神」は三点セットなのです、、、。
なんだか、このブログの、『「向う三軒両隣り色彩差分法」について 』みたいだ、、、。
中世鎌倉街道 その5 につづきます、、、。