11月19日(金曜日)
昨日は23年ぶりに風邪が良くならず点滴を受けた。
インフルエンザなのか通常の風邪なのか、良くわからない。
一日中、ゴロ寝である。変に疲れた。
ここ数日気分もすぐれず最低
そんな中、藤沢周平の周平独言を読んでいたら一茶についての項が有った!
一茶の事は高校時代に国語の教論が、あんなにやさしい句を作ってはいるが
実生活では酷かったんだと、具体的に教えてくれたのが
妙に記憶に残っていて今回時間も有って暇なのでゆっくり本を読んでみた。
ーーーーー本に一部を抜粋**
それまで私は一茶という俳諧師を
痩蛙まけるな一茶是にあり
やれ打つな蠅が手を摺り足をする
といった句で知っていただけである。
つまり私の頭の中には、善良な眼をもち、小動物にもやさしい
心配りを忘れない、多少滑稽な句を作る俳諧師のイメージがあっただけだった。
・・・・・・・中略
そういう私の一茶像をみじんにくだくようなことが
私の読んだ文章には記されていた。
それによれば、一茶は義弟との遺産争いにしのぎをけずり
悪いと思われるような手段まで使ってついに
財産をきっちり半分とりあげた人物だった。
又50を過ぎてからもらった若妻と荒淫ともいえる夜々をすごす
老人であり、句の中に悪態と自嘲を交互に吐き出さずにいられない
拗ね者の俳人だった。・・・・・・・・
とある。

ウキペディアで経歴を調べると
*******
信濃北部の北国街道柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)の
貧農の長男として生を受ける。
3歳の時に生母を失い、8歳で継母を迎える。
継母に馴染めず江戸へ奉公に出、
25歳のとき二六庵小林竹阿に師事して俳諧を学ぶ
(論拠不詳であるが、藤沢周平著『一茶』では小林竹阿には実際あったこともなく弟子というのは一茶の詐称との記述がある)。
29歳の時、故郷に帰り、
翌年より36歳の年まで俳諧の修行のため近畿・四国・九州を歴遊する。
39歳のとき再び帰省。病気の父を看病したが1ヶ月ほど後に死去、
以後遺産相続の件で継母と12年間争う。
一茶は再び江戸に戻り俳諧の宗匠を務めつつ遺産相続権を主張し続けた。
50歳で再度故郷に帰り、
その2年後28歳の妻きくを娶り、3男1女をもうけるが何れも幼くして亡くなっていて、特に一番上の子供は生後数週間で亡くなった。
きくも痛風がもとで37歳の生涯を閉じた。
2番目の妻(田中雪)を迎えるも老齢の夫に嫌気がさしたのか半年で離婚。
3番目の妻やをとの間に1女・やたをもうける(やたは一茶の死後に産まれ、父親の顔を見ることなく成長し、一茶の血脈を後世に伝えた。1873年に46歳で没)。
小林一茶の住んだ土蔵(長野県信濃町)文政10年閏6月1日(1827年7月24日)、柏原宿を襲う大火に遭い、母屋を失い、焼け残った土蔵で生活をするようになった。そしてその年の11月19日その土蔵の中で65歳の生涯を閉じた。

何も知らずに黒姫高原駅(昔は確か柏原駅)から一茶の碑を訪ねた19歳の私は
ここがまあ ついのすみかか 雪五尺
の句を読んで凄い俳人が居たんだと感心しただけであったが
今は一寸違う。
”書かれる文の内容やその人物性格と書いている人物の性格及び人格は違うんだ!
と勘違いしない様にしよう。

昨日は23年ぶりに風邪が良くならず点滴を受けた。

インフルエンザなのか通常の風邪なのか、良くわからない。
一日中、ゴロ寝である。変に疲れた。
ここ数日気分もすぐれず最低

そんな中、藤沢周平の周平独言を読んでいたら一茶についての項が有った!
一茶の事は高校時代に国語の教論が、あんなにやさしい句を作ってはいるが
実生活では酷かったんだと、具体的に教えてくれたのが
妙に記憶に残っていて今回時間も有って暇なのでゆっくり本を読んでみた。
ーーーーー本に一部を抜粋**

それまで私は一茶という俳諧師を
痩蛙まけるな一茶是にあり
やれ打つな蠅が手を摺り足をする
といった句で知っていただけである。
つまり私の頭の中には、善良な眼をもち、小動物にもやさしい
心配りを忘れない、多少滑稽な句を作る俳諧師のイメージがあっただけだった。
・・・・・・・中略
そういう私の一茶像をみじんにくだくようなことが
私の読んだ文章には記されていた。
それによれば、一茶は義弟との遺産争いにしのぎをけずり
悪いと思われるような手段まで使ってついに
財産をきっちり半分とりあげた人物だった。
又50を過ぎてからもらった若妻と荒淫ともいえる夜々をすごす
老人であり、句の中に悪態と自嘲を交互に吐き出さずにいられない
拗ね者の俳人だった。・・・・・・・・
とある。

ウキペディアで経歴を調べると

信濃北部の北国街道柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)の
貧農の長男として生を受ける。
3歳の時に生母を失い、8歳で継母を迎える。
継母に馴染めず江戸へ奉公に出、
25歳のとき二六庵小林竹阿に師事して俳諧を学ぶ
(論拠不詳であるが、藤沢周平著『一茶』では小林竹阿には実際あったこともなく弟子というのは一茶の詐称との記述がある)。
29歳の時、故郷に帰り、
翌年より36歳の年まで俳諧の修行のため近畿・四国・九州を歴遊する。
39歳のとき再び帰省。病気の父を看病したが1ヶ月ほど後に死去、
以後遺産相続の件で継母と12年間争う。
一茶は再び江戸に戻り俳諧の宗匠を務めつつ遺産相続権を主張し続けた。
50歳で再度故郷に帰り、
その2年後28歳の妻きくを娶り、3男1女をもうけるが何れも幼くして亡くなっていて、特に一番上の子供は生後数週間で亡くなった。
きくも痛風がもとで37歳の生涯を閉じた。
2番目の妻(田中雪)を迎えるも老齢の夫に嫌気がさしたのか半年で離婚。
3番目の妻やをとの間に1女・やたをもうける(やたは一茶の死後に産まれ、父親の顔を見ることなく成長し、一茶の血脈を後世に伝えた。1873年に46歳で没)。
小林一茶の住んだ土蔵(長野県信濃町)文政10年閏6月1日(1827年7月24日)、柏原宿を襲う大火に遭い、母屋を失い、焼け残った土蔵で生活をするようになった。そしてその年の11月19日その土蔵の中で65歳の生涯を閉じた。

何も知らずに黒姫高原駅(昔は確か柏原駅)から一茶の碑を訪ねた19歳の私は
ここがまあ ついのすみかか 雪五尺
の句を読んで凄い俳人が居たんだと感心しただけであったが
今は一寸違う。
”書かれる文の内容やその人物性格と書いている人物の性格及び人格は違うんだ!
と勘違いしない様にしよう。