Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

メディア芸術祭 受賞作発表

2008-12-11 23:45:46 | アニメーション
少し頭にきている。
メディア芸術祭のことだ。今年度も各分野の受賞作が選ばれ、当然アニメーション部門も受賞作品が決定した。しかし、「ポニョ」が選から洩れている。大賞はもちろん優秀賞にも審査委員会推薦作品にさえ入っていない。これは一体どうしたことだ?

メディア芸術祭のアニメーション部門の審査委員は昨年度から一新され、審査委員長はガンダムの富野氏から鈴木伸一氏に交代した。昨年度の受賞作品は、それまでとは雰囲気が変わったなとぼくは感じていて、その理由の一つにこの審査委員の交代を考えていた。昨年度の受賞作を知ったとき、初め、ぼくは「どうしてこんな作品を?」と思っていたのだが、実際に受賞作を見てみたら、楽しめるものが多く、前年度までより内容を重視するようになったのだと思った。その顕れとして「河童」が大賞に選ばれたのだと。この作品はストーリーテリングも演出も文句なしに巧く、かなりの長尺をそれと感じさせないほどのすばらしい出来で、確かに何らかの賞を付与してもおかしくはない。たとえ審査委員が今までのままでも、大賞に選ばれていたかもしれない。それでも疑問が湧いてくる。本当にそうだったか、と。
内容重視の方向性は、昨年度の審査委員長の講評で示されていた。以下、HPから引用。

                      ☆☆☆

「説得力や必然性を備えた上質な作品への期待

― 鈴木 伸一(アニメーション部門 主査)

映像作品というものは観る人の知識と好み、思い入れなどにより評価が大きく左右されるものだが、毎年行なわれている文化庁メディア芸術祭では、その年の審査委員の構成にもよるが、数あるジャンルから順当な作品が選ばれていると思う。商業作品は巨額な資金が投入されるため、話題性や認知度でヒットに結びつける場合もあるが、この審査では作品の内容、クオリティが優先される。今年も芸術性、おもしろさ、内容の新しさ、作家の意気込み、将来性など諸々を考慮に入れての選考となった。見方の違いはあったが、今年も良い選出ができたと思っている。異論がある人や作品を見る機会がなかった方は、この結果をもとに、もう一度受賞作品を見てくださるとうれしい。」

                      ☆☆☆

題名に掲げられている「説得力や必然性を備えた上質な作品への期待」がポイントだと思う。そして「話題性や認知度」のあるヒット作には厳しい目を向けていることが分かる。もちろん、ヒットすればすばらしい作品だ、などという理屈はあまりにも馬鹿馬鹿しくてそれを論駁する気にもならないが、しかし必要以上にシビアな目で作品を見てはいないか?と危惧してしまう。まあしかし、これは取り越し苦労かもしれない。問題は、やはり「説得力や必然性を備えた上質な作品への期待」の方だ。「ポニョ」には、まさにその「説得力や必然性」が不足している。そして「おもしろさ、内容の新しさ」という点でも見劣りがする。ぼくは、これが映画祭だったらこうして文句は言わない。映画祭だったら、「ポニョ」が選ばれなくても納得できる。しかし、れっきとしたアニメーション部門の賞で選外というのは首を傾げざるを得ない。構成の破綻をしたり顔で指摘するどこかの凡俗な映画評論家には、言わせておけばいい。だがかりにもアニメーション業界に携わる者が、「ポニョ」のアニメーションとしての魅力を評価できなくてどうするんだ、と思う。

このCG全盛の時代に手描きにこだわったという監督の意気込みもそうだが、何よりそうしてできたアニメーションによって表現された事柄の豊かさを見逃してしまったのだろうか?あの海の描写に痙攣するほどの感動をしないアニメーターは果たしてアニメーターと言えるのか?「できるだけ動かさないようにすること」が日本アニメ界の伝統であることは夙に知られているが、その伝統を打ち壊し、描けるだけ描いてものの見事にあのうねり狂う海を活写し得た功績を、アニメーター以外に誰が讃えようと言うのか?また、愚直に明確なストーリーに沿って進むという映画の骨法を破壊したという点でもそろそろ宮崎駿は公的な評価を受けてもいい頃だ。前衛的な実写映画には早くから見られるパターンかもしれないが、しかしそうした方法論というか物語の展開の仕方を大衆的な商業アニメーション映画にも導入してしまった点は、評価していい。それをしないで、物語を「論理的整合性やストーリーラインの原則に照らし合わせることは愚の骨頂」(樋口真嗣)だ。叶精二氏は「ポニョ」を「画期的な快作」として、「高次の表現を開拓している」宮崎駿を絶賛しているが、彼のような見識の持ち主はメディア芸術祭の審査委員にはいなかったのだろうか。

そのラディカル(根源的・先進的)な表現と物語展開において、「ポニョ」こそ受賞に相応しい作品であると確信する。今年度の受賞作は、昨年度同様おもしろい作品が多いかもしれない、そして優れた作品も多いことだろう、しかし、万人受けする内容重視の観点からでは見過ごしてしまう作品も必ずあること、そういう作品こそ公的に評価されるべきであることは、審査委員の方々には自覚してもらいたい。確かにまだ昨年度の受賞作品の傾向しか分析できていない段階でこういうことを言うのは勇み足だろうが、恐らく当たっていると思う。

ほとんど恨み節のようになってしまったが、誰かが声をあげなければならないだろう。
「ポニョ」が好きとか嫌いとかいう個人的な趣味の問題はどうでもいい。アニメーション関係者に、驚くべきアニメーションの傑作として評価してほしいのだ。もしそれができなければ、日本のアニメーションの未来は暗い。

ボルヘス『伝奇集』

2008-12-11 02:39:06 | 文学
ボルヘスは好きな作家なのですが、「好き」と言いながら、実は『不死の人』(白水Uブックス)と『砂の本』(集英社文庫)しか読んだことがありませんでした。でもボルヘスは他に『ブロディーの報告書』とこの『伝奇集』しか小説(集)は書いていないんですよね(「汚辱の世界史」は『砂の本』に収録)。

さて、『伝奇集』は紛れもない傑作です。ぼくの今まで読んだ本の中でも、最高峰の傑作だと言えると思います。ラテンアメリカ文学だったらガルシア=マルケスかボルヘスか、なんて比較がありそうですが(ちょうどロシア文学でドストエフスキーかトルストイかという比較が昔からあるように)、甲乙付け難いですね。ただ、ボルヘスはガルシア=マルケスに比べて、読者をより選ぶかもしれない、とは思います。それと言うのも、ボルヘスのあのペダンチックな文章に辟易してしまう読者が少なからずいるだろうからです。実在するんだかしないんだか分からない、聞いたこともない学者の名前を続々とその短いテクストの中で披瀝されては、少々いらいらしてくるのも当然ではないか?しかし、これこそボルヘス文学の重要な特徴の一つで、このめくるめく列挙法は例えばエリアーデやキシュのある種のテクストでも見られる通り、読者をたまゆら眩暈させ、ほとんど幻想的な物語世界へ読者を拉しさってしまうのです。

ボルヘスのテクストは非常に知的で、探偵小説の体裁を借りた「死とコンパス」ですら、神学的な筋書きに沿って話が進みます。結末は探偵小説の枠組みから完全に離れて、なんとも形容し難い、死んだ後の次の生の話に収束します。この短編では後半シンメトリーな館が舞台になりますが、この着想はぼくにはとても興味深く思われ、これを題材にした小説を書きたくなってしまいました。題名は「ヤヌスの館」で、シンメトリーな館に潜入した一人の男が、最下層で自分自身と出会う、という話。この物語のくさぐさを考えるあまり、「死とコンパス」以降の小説を集中して読めなくなってしまったほどです。

ボルヘスの小説はどれも短いながらも、別の小説の産褥とも言うべき豊かな題材がこのように潜在しており、まるで後に生まれてくるだろう小説群の母であるようです。例えば、島田雅彦がいま朝日新聞に連載している小説に、記憶師と呼ばれるあらゆることを記憶している人物が登場しますが、それは恐らくボルヘスの「記憶の人・フネス」から採ったものでしょう。しかし、その記述はボルヘスの方が奇想に富み、優れているように思えます。「彼は一八八二年四月三十日の明け方の南の雲の形をおぼえており、それらを、追憶のなかにある、たった一度みたことのある皮表紙の本の大理石模様のデザインと比べることができた」のような文は、大変にボルヘスらしく、そして素直におもしろい。ボルヘス自身が、架空の書物の粗筋を述べたりそれを批評したりしていて、小説の奇抜な着想を惜しげもなく披露しているようです。

「砂の本」でも見られた架空の書物は、『伝奇集』でも「ハーバート・クエインの作品の検討」の中に見られます。ところで前者は始まりも終わりもない書物、後者は出来事の様々な可能性を並行して描いた書物に言及しており、これらの実在はほとんど考えられないことですが、しかしそれはボルヘスがこれらを書いた当時の話であって、現在では恐らくハイパーテキストによって実現が可能、もしくは限りなく可能に近い状態にあると思われます。実際、ガルコフスキーの『果てしない袋小路』はインターネット上にばら撒かれたテクスト群の集積、見えないテクストへの註釈の塊であり、そこには並列的な世界が拡がるばかりです。

他にも、奇想に溢れた抜群に興をそそる作品が多い『伝奇集』ですが、一つ一つを解説していくことはできないので、いっそこの辺でやめておきましょう。それにしても、今日は文学的なブログになったなあ。