Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

現状追認

2011-03-07 23:50:33 | お仕事・勉強など
塾のチラシがしょっちゅう家のポストに入ります。そのうちのある塾は、チラシ上で(首都圏の)入試情勢を巡るその塾の見解を連載していて、ぼくは気が付けば読むようにしています。そしてその度に憤激しています。

先週のチラシには、こんなことが書かれていました。
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「進学は生徒諸君の未来をかなりの部分で規定します。MARCH(明治、青山、立教、中央、法政)以上の大学への進学がなければ、もはや有力大企業への就職が難しいということは、諸統計によっても示されています。そのMARCHでも、有力大企業就職率は10%内外であり、国公立大学の台頭と企業採用の少数精鋭化によって存在意義を脅かされています。/就職がすべてではありません。しかし仕事のやりがいと生活の安定を考えたほぼすべての新卒諸君が最終的には大企業への就職を希望し、そのほとんどはかなえられていないという現実があります。「君たちには無限の未来がある」などという内容空疎な大演説がいまだに横行し、生徒諸君をミスリードしていますが、現実は未来の可能性は意識的な努力なしにはどんどん狭まっているというべきです。」
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この塾が何を言いたいかというと、だからこそいい大学に入り、そのためにはいい高校・中学に入学すべきである、ということです。ただし「いい大学・高校・中学」の定義は近年変わりつつあり、とりわけ中学・高校では都立の台頭が著しい。私学凋落はもはや明らかであり、公立中高一貫校こそが今目指すべき学校である、ということです。更に言えば、従来の私学重視の入試対策から公立重視へとシフトした、この先見の明がある我が塾に入りなさい、ということです。

なぜ中学を受験するのか。いい高校に入るため。なぜいい高校を受験するのか。いい大学に入るため。なぜいい大学を受験するのか。いい会社に入るため。・・・という、これまで散々批判されてきたロジックが、ここで恥ずかしげもなく展開されていることにぼくはちょっとした驚きを覚えます。ちなみになぜいい会社に入るのか、という問いに対しては、「仕事のやりがいと生活の安定」という答えが与えられています。ぼくは、いや「ぼくら」は、こういう言説に対して常に反発を感じてきたし、この気概をこれからも持ち続けたいと思う。「ぼくら」が一番嫌いだったのはこういうロジックでしたが、まだ中学生だったぼくらは、それに為す術なく、ただ「勉強しない」という形でしかそれに抗議できませんでした。だから今、こうした言説、抑圧的言説に対していかにして抗議が可能か、ということを考えたい。

なるほど入試情勢の変化は確かなのでしょう。私立から公立へ、という流れが首都圏ではより大きなものになりつつあります。この塾は、その流れに乗じて飛躍しようと期すものがあるのかもしれません。けれども、それは先見の明といった美辞で語られるべき態度ではなく、現状追認に過ぎないのではないでしょうか。かつてのロジックはそのままに、ただ受験する対象が変化しただけです。この対象の変化、入試情勢の移ろいを追認し、それに乗っかり、加えて使い古されたロジックを駆使して受験熱を煽っているだけに見えます。

また、新聞などのメディアには、一部大企業にのみエントリーして全滅する学生に対して、なぜ中小企業を志さないのか、といった論調がときどき見られますが、その背景にはこういう塾の存在が実は大きい。もちろん塾だけではなく、大企業でなければ生きていけないかのような言説がまかり通っている社会に淵源があるのですが、報道では学生の視野の狭さということが問題になる。しかしこの視野狭窄の原因は一部の塾をはじめとした社会であって、学生に罪をなすりつけるのはどう考えてもおかしい。もっとも、大企業の方が社員が優遇されているのは確かなので、その点はもっと是正されてしかるべきであるとはいえ、しかし、少なくとも「仕事のやりがい」なるものは大企業の専売特許ではないでしょう。大手の塾が大企業至上主義を掲げ、そのための受験/受検を励行している現実をこそ、大手新聞などの良識があるとされるメディアはもっと報じてしかるべきでしょう。これからの日本では大企業でなければ生活していけない、といった巷に流布している言説が本当なのか、といった一見馬鹿げた問題を検証するためにも、その問題の所在、その問題系の規模を正しく認識する必要があるのにもかかわらず、なぜか「学生の視野」に問題は矮小化され、一方で大企業至上主義はますます増長しています。これはもはや就職活動期間の問題ですらないでしょう。

この大企業至上主義がどれほど今の日本に有効なのか、という議論を先送りにして、ただ古臭いその主義主張を追認している塾があるということ、このことにどうしても怒りを覚えてしまう。ここはただ現状を追認しているだけではないか。しかも、その現状を正しく認識しよう、もしも間違っているならば是正しよう、という気概は一切感じられません。ありのままの現実に適応することに汲々として、あるべき現実を見失っているように思えてなりません。それは塾の役目ではない、と言えばその通りかもしれませんが、しかしそういう塾の姿勢が負の構造の一部をなしているのであり、謂われもない学生へのバッシングを生むのです。せめてそのことには自覚的であってほしい。

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上記の文章は、かつて中学生だった「ぼくら」による、まさにその「ぼくら」に宛てた、空想の手紙です。