Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

発表!

2011-01-14 00:39:46 | お仕事・勉強など
明日(もう今日ですけど)、授業の発表なんですよ。
もちろん文学です。

ぼくはこれまで、発表や論文というと、テキストにきちんと向き合わずに、その文化的背景やそれの関係する項目なんかを調べることに傾注しすぎて、脱線してゆくことがあまりにも多かったのですが、今回は自らその方法を禁じて、あくまでテキスト中心主義の立場を取ることにしました。いわゆるテクスト分析というやつではないと思いますが、でもそのタイトルに注目することからはじめて、テキストの中の言葉に注意を払ってみました。その上で、必要な脱線をし、それからテキストの成立事情を詳述し、またテキスト内部に戻り、というふうに進行させるつもりです。

とはいえ、これはぼくなりのテキストへの向き合い方でして、別の人から見たら、まだまだ向き合い方が「誠実ではない」と思われてしまうかも。でも、これでも自分の中では一歩前進でして、テキストに真正面から取り組むのも案外おもしろいものだなあ、と思い至った次第です。

ところで、日本の文学界では、「テクスト」という言葉を使うのが主流となっていますが、実際ぼくも最近まではそうしていましたが、去年の秋くらいから、「テキスト」という言葉で済ますことが多くなりました。どうせ英語にしたら一緒だろ、という思いもあるし、バルト全盛の時代じゃないし、というのもあるし、そもそも「テクスト」をバルト的な意味で用いることは少なくて、普通は「作品」でいいんですよね。ぼくの中では、「作品」と「テクスト」両方を代用するものとして、「テキスト」という言葉を勝手に使っているのですが、もちろんこれはぼくの気持ちの問題であって、文学的根拠があるわけではありません。

ただ、少々気になるのは、明らかに「作品」という意味で「テクスト」という言葉を使っている例がときどき見られること。そんなかっこつけなくてもいいのにな、と思ってしまうのですが、「テクスト」の方が文学っぽいという感覚が多くの人から消えない限り、この言葉の流行は続くのだろうな。まあしかし、そういう語感って大切だよね、という気持ちもあるのでした。

そうえいば、古めかしく硬質な文章をせっかく書けるのに、平易な文章ばかり書いていてはもったいない、というようなことを言われたことがありますが、なんていうか、美文調とか漢語調の文章は、いつの間にかあまりぼくの気を惹かなくなったんですよね。そういうのじゃなくてむしろ、自由闊達な、ひらがなを多用した文章の方にぼくは今惹かれています。助詞一つの働きで文の調子を一変させるような、そういうのを書きたいなあ。もっとも、読むんだったら、上手であればどっちでもいいんですけどね。

軽量級のエントリ

2011-01-11 23:53:46 | Weblog
重量級の記事が連続したので、今日はかる~く。

まあなんていいますか、その、寒いですよね。
月曜日などは、自転車に乗っていたら寒くて泣きそうになりました。風がびゅーびゅー吹いて、呼吸ができないくらいで、冷風に窒息しそうになりましたよ。どうやら最高気温は6度だったらしいですよ。で、今日も6度だとか。早朝には氷も張るくらいだと言うし、通勤時間帯に、自転車に乗って駅まで行くのはかなりつらいのですよ。寒すぎる。

で、今日、自転車で駅まで行くのが寒くて、というような話をしたら、自動車の話になってしまい、どうやら自転車を自動車と聞き間違えたらしい。まあそれはいいんですけど、そうすると、ぼくが駅まで「自動車」で通っている、ということになってないか?うち車ないんですけどね・・・

という、しょーもない話でした。

誤読のすすめ?

2011-01-10 23:04:10 | Weblog
速読や遅読を勧める本はよくありますが、誤読を推奨する本はあまりないのではないかと思います。哲学の歴史とは、誤読の歴史とも言いうる、みたいな文章をきのう読んで、ふとそんなことを考えました。

実は、哲学の歴史=誤読の歴史という発想は、前々からぼくにもあったのですが、こんなことを言っちゃっていいんだろうか、と思って誰にも言わずに胸の内にしまっていたのでした。でも、やはりそんなふうに考えている人はいるんですね、哲学者の中にも。もちろん、こういう発想がすぐさま真である、ということにはならないし、注釈が必要だとは思うのですが、けれども、この等号関係は哲学史のある一面を言い当ててはいるのだろうな、とは思います。

というのも、誰それの哲学書を読んでみても、よく分からないからなんですよ。で、解説書にも当たってみる。すると、本によって書いていることが違うんですよね。統一見解というものがない。ある程度の前提は共有しているのでしょうが、重要な概念ですら、解釈が分かれている場合がしばしばあります。このようなことは、著名な哲学者たちの間でも普通に起こっていた事態だと思うんですよね。例えば、カントをベルクソンが批判、という一事を取ってみても、果たしてベルクソンがカントを「正確に理解」していたかというと、非常に心許ない。カントの『純粋理性批判』は人類史上最も難解な著作の一つとも言われますが、それを完全に理解し、咀嚼し、我が物とし、その上で批判していた、ということは、常識的に見ても考えづらい。そもそも「分かる」「理解する」とはどういうことなのでしょう。この場合は、著者の意見(著者の言いたかったこと)を理解する、という意味でしょう。でも、ある人の考えを他人が完全に理解するということは、果たして可能なのでしょうか。どこかに必ず齟齬が生じてしまうのではないでしょうか。そのズレがときに軋轢を生み、ときに新たな解釈を生むのだと思います。

自分なりに理解する、という事態がどうしても生じてしまう。つまり、「普遍的な理解」というものはありえないということです。誰かの発言をおおよそは「理解」したとしても、それは必ずや「自分なりの理解」であって、その何某が考えたのと全く同じ考えを習得したわけではありません。もしもそうだとすれば、反論は難しくなるでしょう。その人の考えに近づけば近づくほど、反論は難しくなる。それは当然のことです。一方で、討論の場では、他者の考えを「客観的に理解」して、その上で自分の考えと擦り合わせて検討する、ということが目指されます。でも実はこれは不可能なのではないでしょうか。「客観的な理解」というのは、撞着語法のように思われます。「理解」というものが主体に引き付けてなされるものである限り、それが客観であることなどありえない。自分の考えが侵入することは避けられません。僅かばかりの思い込みや先入見によってでさえ、他者の考えは「私」の侵略を受け、変貌します。仮にほぼ完全に客観的に理解したと思っても、それは客観的に理解した「かのように」思われているだけで、本当は主観が入り混じっているはずなのです。

そうすると、哲学者が他の哲学者の書いた本を読み、意見を聞き、それに反駁したとき、それが正当であるように思えた場合でさえも、そこには単純な「乗り越え」ではない、少し歪な「乗り換え」があるように思われます。少しだけ他者の意見から逸れ、あるいは誤解しているせいで、その上を乗り越えたと思い込んでいても、その実、別の路線に乗り換えていただけ、しかしながらちゃっかりとその他者の考えの上を走っている、というような事態が生じているのではないでしょうか。

このような理解の不可能性を、もし「誤読」と呼ぶとしたら、あらゆる書物の歴史は全て誤読の歴史に他ならないことになります。書物に限定せず、人間関係に敷衍したとしても、同じことが言えるでしょう。ぼくらは他人を「誤読」して生きている。

ですが、このことが絶望に繋がるとはぼくには思えない。むしろ、誤読の不可避性は希望であり、可能性であります。仮に完璧に客観的な理解がなされたとき、反駁は困難になると既に書きましたが、そうだとすれば、文明や文化に発展は望めません。誤読があるからこそ、齟齬が生じるからこそ、文明は伸長し、コミュニケーションは成立します。これを定式化すれば、擬似的な反復の中の差異にこそ人間の可能性がある、ということになるでしょう。

ちなみにですが、この文章、中学生や高校生は読んでいないですよね・・・?本というものは、しかしある程度の「理解」は可能ですので、ちゃんと勉強して下さいね(もしも完全に相手のことが理解できないとしたら、それもまた文明の発展を阻害してしまう)。

身を横たえるキャラクター

2011-01-10 01:22:29 | アニメーション
ある人の書いた宮崎アニメ論を読んだのですが、その一部を要約すると、次のようになります。

宮崎作品では、登場人物たちが身を横たえるという表現がパターン化している。そしてそれは、色々な形でバリエーション化されているものの、男女が並んで身を横たえているときは、性愛を暗示している。

例として挙げられているのは、ナウシカ、ラピュタ、トトロ、魔女、豚です。
では、このような指摘は果たして妥当なものでしょうか。
まず言えることは、男女が並んで横たわっていれば、それをすなわち性愛表現の暗示とみなすことは、かなり自然な発想であるだろう、ということです。このことと、宮崎作品にはそのような場面がパターン化していることとを重ね合わせれば、宮崎駿は自らの作品のうちで、性愛を暗示していた、とみなすことができそうです。

ですが、ぼくにはいまいち納得できない。論理的にも実感としても。まず論理的にというのはどういうことかと言えば、厳密な意味で男女が並んで横になるのは、本の著者が指摘している範囲に限定すると、『ナウシカ』のナウシカとアスベルが腐海の底で眠るシーンと、『ラピュタ』のパズーとシータがラピュタに到着して腰紐をつなぎ合わせたまま寝そべるシーンの、二つしかないんですよね(ちなみにぼくの読んだ本にはこの後者のシーンは言及されていなかったのですが、こちらの方が適当なのでこちらを挙げておきます)。『トトロ』ではメイないしサツキがトトロの上に横たわるだけだし、『魔女』ではキキのお相手はジジ(しかしやはり本では指摘されていませんが、キキとトンボが並んで寝そべるシーンがある)、『豚』では男女が並んで横になるシーンはありません。この3つの作品では、「身を横たえる」というパターンがバリエーション化されている、と本の著者は言うのですが、仮にそうだとしても、もはやそのような劣化したパターンから性愛を読み取るのは牽強付会であると言わねばなりません。

次に実感として、という部分についてなのですが、ぼくは何も宮崎作品に性愛を仄めかすシーンが皆無であると主張しているわけではありません。その顕著な例が『千と千尋』でしょう。湯屋というのは昔はかなりいかがわしい行為をする場所だったと宮崎駿自身が述べていて、そこに10歳の少女を働かせるというのは、かなり戦略的な性愛の暗示です。カオナシという存在は、確かに痴呆老人の比喩だとも受け取れますが、金で湯女である千尋を思うままにしようとするのは、まるで援助交際を迫る大人のようである、とも受け取れます。様々な象徴性を背負ったカオナシから特定の人間像を引き出すことは容易ですが、ここではそれがセクシュアルなイメージをも体現している、と言っておきます。

また、『ラピュタ』でもあの見張り台の上でパズーとシータが同じ毛布(ダボシャツ?)にくるまっているシーンは宮崎駿なりのエロチックなシーンだと考えることはできます。ですが、それにもかかわらず、『ナウシカ』から『紅の豚』に至る宮崎作品の系譜の中で、日本語の「性愛」という言葉に正しく合致するようなイメージは、ほとんど生成されてこなかったのではないか、とぼくは思うのです。それは『千と千尋』にしろ『ハウル』にしろ、同様のことです。

陽と陰のどちらと問われれば「陰」と答えてしまうような、「性愛」という語のイメージ。どこか湿り気のある、妖しげなそれは、宮崎作品の明るく活発なイメージとはかけ離れています。なるほど宮崎作品に性を暗示するシーンが皆無ではないことは既に触れましたが、しかしそれは俗な意味での「性愛」や「エロス」ではなく、少年少女の仄かで繊細な、あるいはむしろ荒々しいほど直接的な、暗がりで行われるようなイメージではなく、明るい日のもとで行われるイメージに転化されているような気がするのです。

男女が並んで寝そべっていたり、女性が男性に口づけしたりすることに性的な意味づけを与えることは確かに可能であり、それ自体としては論理的に破綻していませんが、けれども宮崎作品にその理屈をあてはめることは、少し的を外れているのではないか、と考えます。間違ってはいません。でも、性的な、という事柄が人の劣情を刺激し煩悶させる類のものであるとしたら、あるいは具体的な男女の結合を示唆するものであるとしたら、やはり宮崎作品と「性愛」という言葉は少し遠い関係にあると言わねばならないように思います。そもそも、男女のキスは本当に性愛を暗示するのでしょうか。そうである場合も多いでしょうが、そうでない場合もまた多いのではないかと思います。二つは等号で結べません。

ぼくの感じているのは、単純な図式化や短絡的回路の危険性と、それに伴い複雑性や隠微な情感が欠落することへの悲しみです。図式化は様々なことを分かりやすく示してくれますし、今の場合で言えば、宮崎作品の特徴が一望のもとに見渡せます。これを基に個々の作品をより詳しく検討してゆけば、実りある研究となるかもしれません。ですが、その図式化から必ずはみ出してしまう細部、例えば「キス」という行為の意味範囲において「性愛」とは重ならないような部分の密やかな情緒は無視されてしまいます。ぼくは、その細部を掬い取りたい。と言うよりは、宮崎作品を観て心打たれるのは、実はその細部なのではないかしら、と思うのです。

サンがアシタカに口移しをしながら介護するとき、具体的な性愛行為を思い浮かべて興奮する者が果たしてこの日本の大多数を占めるでしょうか。とてもそうは思えません。一般の人たちの反応の想定を述べても仕方ないですが、ぼく自身の感情としては、あのシーンに抱くのはもっともっと切ない思いです。哀しみと表現してもいい。パズーがシータと同じ毛布にくるまるとき、それを見るぼくが感じるのは、やはり淡く且つ鋭い恋心に似た、物悲しく、強烈で、美しい、憧れ。そのような感情をもたらしたものを「性愛を暗示」と一言で括ってしまうことは、ぼくには乱暴に過ぎるように思われます。

痛快で活発な行動と並んで、やりきれないほど繊細な感情表現もまた宮崎作品の特徴だと思いますが、それを疎かにしてはいけない、少なくともぼくは、その微細な感情の一滴一滴をしっかりと受け止めたい、感じ取りたいと思うのでした。

投稿!?

2011-01-09 00:20:00 | 文学
某文学賞に、何かを投稿しようかなあ、ときのう突然思いついたわけなんですけど、どうですかねえ、と誰に聞くでもなく呟いてみる。小説ではなくて、評論を出してみようかなと考えているんですけど、ぼくの立場的に、大丈夫なんですかねえ。専門に直接関わることは書かないつもりなんですが、それでも、ちょっと心配だったりします。いや別に専門のことだったとしても問題ないのかな。もし予選を通過して名前が雑誌に掲載されてしまったら、後で色々と厄介なことにならないだろうか、と変なことに頭を悩ませてしまって、なんていうか、お目出度い人なのかもしれませんが、でもちょっとおもしろそうなので投稿してみようかな。

どうもぼくは将来的に先生にはなれなさそうだし、するとせっかく学んで得た知識を世に出す機会もなく、このまま墓場に持っていくことになりそうな予感がびんびんするので、もっと積極的に自分を売り出した方がいいんではないか、と思った次第なのであります。そっちの方で道が開けそうなら、そっちに行けばいいし。それに、アカデミックな環境に身を置いていると、かえって自分の実力がどれくらいなのかということがさっぱり見えないのでありまして、自分の論文は果たして評価されうるものなのだろうか、ということにはけっこう悲観的だったりします。そこで、力試しの意味も兼ねて、世に問うてみようではないかと思ったのですよ。せめて予選を通過すれば、まあまあ人に認めてもらえる範囲なのでしょうし、通過しなかったら、もっと勉強せいということなのでしょう。まあ、選考委員の好みとか、論文の専門性とか、色々と要件はあると思いますが、予選通過というのは一つの目安になりうるのではないかと。

ただし、専門のことでは書けない、というのはやや他の応募者に比べると不利なのかな。書いてもいいのかもしれませんが、一応書かない方が無難かな。専門的すぎても仕方ないですしね。けれどもネタは幾つかあるので、そのうちの一つで勝負をかけてみたいと思っています。

・・・と、ここまで書いてきて思う。本当にぼくは文学賞に応募するのだろうか?

ちいさな学校

2011-01-08 00:48:28 | アニメーション
阿佐ヶ谷にある、アートアニメーションのちいさな学校が、まんがコースと並んでライターコースなるものを設置することになったのだけれども、たしかアニメーション批評というコースが学校設立当初には設けられていたような気がしないでもないんだが、どうだったでしょうか。ちょっと当時のチラシを見てみれば分かることなのだけれども、その、めんどいのでやりません。ああホームページですか、ちょっと見てみたところ、批評コースというのは置いていないみたいなんですよね。それとも探し方が悪いのかな。

ライターコースというのは、批評もやるし編集もやるし原作だって作っちゃうぞというコースみたいですが、対象はまんがなんですかね。アニメーション批評とかは教えるんですかね。そこのところがちょっと気になります。まあ、夜間コースでさえ20万円かかるので、入学するのはきついけど。というか、既に別の学校の学生ですけど。

アニメーションといってもジャンルは広いので、何を勉強したらいいのかってけっこう悩みますよね。とりあえず好きな作品を見つけて観ることから始めるべきなんでしょうかね。今はネットでいろいろ見られるから、まあ恵まれている時代なんでしょうね。

なんだかとりとめのない記事になってしまったような気がしますけれども、一種のつぶやきでした。

五十一話集

2011-01-05 22:42:56 | 文学
ダンセイニの超短編小説集『五十一話集』を読む。ほぼ全ての作品が1~2ページに収まる内容で、非常に短いのが特徴。

さて、ダンセイニのこの作品集はタルホに絶大な影響を与えたらしく、それを知る前からぼくは読んでみたいと思っていたのですが、知ってからは、尚のこと読みたくなりました。で、読み始めると、なるほど、これはタルホの世界に一脈通じるものがある。

ダンセイニの世界観は、独特の寓話的・神話的世界であり、そこでは「死」や「名声」が人間と言葉を交わし、牧神のパンが死んだように眠りこけ、ペテロは娼婦に天国の門を開け、ミューズは人の国に使者を遣わし、男は夢の中で城壁をよじ登る。

訳文はときに格調高く、ときにお伽話の語り口に似て、自由自在。

時は千年を一瞬にして跳躍し、人間の造り出した文明は滅んでも、星々の世界と神々の世界は永えに続くものとして描かれます。『五十一話集』の随所に見られるのはこの文明批判と自然崇拝であり、仮初の生しか与えられないかのような人間が栄達を望むことへの皮肉も感じられます。冒頭の「あいびきの約束」は、詩人には目もくれない「名声」が最後に、百年もしたら墓場で詩人と会う約束をする物語であり(!)、「鳶職人」は、ホテルのてっぺんから落ちるときに足場に自分の名前を彫りつけようとした鳶職人を愚かに感じた「わたし」のもとに(そのような名前などどうして残ることがあるだろう)、その職人の幽霊が現われて、「くだらねえ文明なんざ何世紀かすりゃみんなきれいさっぱりなくなっちまう」と笑う物語でありました。こんなあらすじではよく分からないかもしれませんが、いずれも巨大な思想がぞぞっと来るほど集約された、稀に見る凝結度の高い見事な超短編となっています。

また、「あいびき」の例からも分かるように、詩人は人間の中でも特別扱いされていて、彼は一個の文明よりも貴重で、価値のある、後世に名を残すことのできる、恐らくは人間で唯一の存在です。

ダンセイニのペシミズムというか厭世主義、そして無邪気と覚えるほどの詩人崇拝は、もしかするとナイーヴに感じる向きもあるかもしれませんが、しかしこのある種の極端さが夢の世界、神話の世界の論理に通じている気がして、一つの妙味となっています。

お伽話ないしは例え話として完結したこれらの作品は、もし超短編小説というジャンルが峨々たる連峰であるならば、間違いなくそのジャンルの一峰の頂点に君臨している。アレーのようなブラックユーモア、タルホのような曖昧模糊とは異なる、しかしどこかタルホの世界観と響き合いもする、独自の魅力を具えた優れた作品集だと思います。

初詣!

2011-01-05 00:08:56 | お出かけ
きのう、初詣に行ってきました。
色々とあって、亀戸天神にまで行って参りました。
昼頃に着いたのですが、ものすごい行列で、境内から道路にまで続き、折れ曲がり、歩道に沿って何メートルも何メートルも延々とのびていました。並ぶのは好きじゃないのでもうやめようかなと思いましたが、しかし行列の進行は思いのほか早く、スムーズでしたので、そのまま行列の中に立っておりました。すると前へ前へと押されてゆき・・・しばらくすると境内の中へ。それからまたゆるゆると進み、全て合わせて40分ほどでしょうか、お賽銭を投げることができました。40分。長い気もしますが、けれどもあの長蛇の列を思えば、短い方だと思います。そのくらいの行列でした。

屋台がけっこう出ていたので、そこで軽い昼食を済ませ、亀戸天神を後にしたのでした。
今日はこれでおしまい。

元日の過ごし方

2011-01-02 00:33:33 | Weblog
今日は学校の課題をずっとやっていて、ほとんど正月気分を味わえなかったあ。

昼前に起きて、新聞を読んで、おせちを食べた。ここまではお正月。ちらっとニューイヤー駅伝を見た。ここまでもお正月。でもそれから自分の部屋に行って、机の前に座る。ああ、普段でさえなかなか机の前に座れないのに、今日は珍しくすぐさま勉強態勢。それから少し頭をひねって色々と考え事をして、大体の筋道を立てて、よし、とパソコンの電源を入れる。そしてレジュメを一気呵成に書き上げる!・・・思ったよりも時間がかかる。

夕方の6時頃に作業が終わり、お風呂に入って、お寿司を食べた。ここからがまたお正月気分。それからずっとテレビを見て、12時になって、今に至ります。目がしょぼしょぼするう。

しかし、懸案だったレジュメ作りが一段落したので、明日は心身ともにリラックスしようかな。本でも読もうかな。へっへっへ。それにしても、振り返ってみると、テレビを見ている時間の方が、作業をしている時間よりも長いんだな・・・じゃあそこそこお正月気分を味わえていたのかな?実感ないですけど。

そういえば、図書館が休みなんですよね。フーコーの本が読みたかったのですが。借りておけばよかった。痛恨のミス!まあでも、なんとかなるさ、たぶん。

宝くじ

2011-01-01 01:15:49 | Weblog
                新しい年、おめでとう!

と、新年の挨拶を述べさせていただきます。
今年のゆく年くる年は雪が降っているお寺が多くて、こんな年も珍しいですね。佐賀まで雪なんて。鳥取が特にすごかったです。

さて、実は宝くじを買っていて、大晦日にさらさらっと番号をチェックしてみたわけですが、一枚当たりました。まあ、その、皆さまのご想像通り、300円ですけど。でも3万円は、2番違いで、かなり惜しかった!くそう。10枚しか買っていなかったので、こんなもんなのかな。1億円の枚数を増やすのもそりゃいいですが、1千万円くらいのをどーんと増やしてほしいなあ、と思うのでありました。

さてさて、そんなわけで、宝くじは外れてしまいましたけれども、それはもう去年の話。しまった、クリスマスが終わってしまったと思っていたら、もう「今年」というものが終わってしまって、「来年」になってしまっていたのですね。「来年」になった、ということは、つまり「今年」になった、ということです。うむ。去年は、よいお年を、という言葉を書きそびれてしまったので、今年は、よいお年を、とブログに書きたいと思います。ふむ、へんてこな年初の誓いだな。今年の目標などは、また改めて書こうかな。何か浮かんだら。

というわけで、2011年、知っている人も、知らない人も、今年もどうぞよろしくお願いいたします。