友人の紹介で、1月21日、沖縄に住む金城文子さんにお会いした。金城文子さんと友人のお母様は、終戦前、ハルピン陸軍病院の伝染病病棟で一緒に従軍看護婦として働いていた。宿舎の部屋も一緒だった。二人とも、終戦間近に院長の英断によりハルピンを脱出し、釜山経由で昭和20年9月29日、早々に博多に帰還している。その様子は、『7000名のハルピン脱出』『7000名のハルピン脱出 追補』(嘉悦三毅夫著、ハルピン陸軍病院院長。非売品。昭和46年8月出版)に詳しい。この本を友人からお借りし、知らない事ばかりで驚いた。「自序」には、以下の記述がある。
「私の在職中最も大部分を占めたのは満洲国顧問時代で、満洲国軍の衛生医事関係事項、例えば満洲国軍事衛生部の編成、陸軍軍医学校、陸軍衛生工㡀、治安部病院の新設、満洲国赤十字社の創立などの仕事がありますが、(中略)本書の題名を「7000名のハルピン脱出」としましたのは、私の軍医生活中、ハルピン陸軍病院長として終戦直後、患者と共にハルピンを脱出したことが、私として1番の大仕事でもあり、記憶にも残っておりますので、題名とした次第です。(略)」
本の題名になったハルピン脱出(引き揚げ)に関する記述は、全474ページの50ページにも満たない。満洲国軍事顧問時代の記述が大半を占める。その中には、高官やお金持ちは、当時一夫多妻であったこと、阿片のこと、住居の事など、日常生活に関する記述も散見され、当時の社会状況を知る上で興味深い。
その本の中に、ハルピン陸軍病院は、満洲における陸軍病院としては最大のもので、収容定員6000名、医師約60名、看護婦約300名、衛生兵約300名、職員約300名。その他、病院の付属として農地約50町歩、乗馬及び耕作用として馬約25頭、乳牛10頭、豚約600頭、農地耕作農夫約300名を有していたという記述がある。食料は自給自足が出来るほどの規模を抱えていたことがうかがえる。
嘉悦院長は、ソ連の参戦を予期し、ソ連との一戦を覚悟していた。しかし、衛生兵や傷病兵ではとても一戦が出来ないと思い、軍司令部からの「病気は治らんでもよいから小銃が持てるようになったならば、原隊になるべく多く帰すように」という再三の命令を無視し、引き揚げ数か月前から、治癒した健康な傷病兵約1000名を留め置いていた。彼らがいたために無事帰還できたと述懐している。この本には「傷病兵6000名近くと職員とその家族ら1000名が四ケ師団に分かれ、8月14日から17日にかけてハルピンを脱出した」とある。関東軍司令部とは連絡がとれず、院長の英断で大脱出が敢行された。その後の詳細は省くが、当時、「生きて虜囚の辱しめを受けず。」の戦陣訓が生きていた時代に、戦わずして南に逃げたことは、英断というほかはない。7000名以上の命が助かったのだ。帰国後、陸軍大臣に報告するも軍法会議にはかけられなかったという。当時は、戦陣訓のために、実に多くの命が失われた。満洲における集団自決や沖縄戦の集団自決などの悲劇を生んだ。嘉悦院長の英断のお陰で7000名と共に、金城さんも友人のお母様も日本に帰る事ができ、今沖縄と四国で穏やかな日々を過ごしておられる。
友人が大学生の時の事。お母様が、沖縄に住む金城さんの事をたびたび口にするのを聞いて、お母様の為に沖縄に行って金城さんを探そうと決断した。結婚して名前も変わっているだろう。ハルピン陸軍病院にいたという情報くらいで見つかるかどうか、賭けであった。当時は沖縄が日本に返還されていなくて、パスポートが必要な時代だった。新聞社に尋ね人の記事を書いてもらうと、その小さな記事が金城さんの姪御さんの目にとまり、その日のうちに連絡がとれ、金城さんと友人は会う事が出来た。そして翌日の新聞の小さな記事になった。友人のお母様は、金城さんより5歳年上、今年97歳になられる。車椅子生活ではあるが、頭も気力もしっかりしていて、お元気に四国に暮らしておられる。沖縄と四国に住む二人の間には、電話と手紙によるやり取りが今も続いているそうである