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アウシュビッツ博物館ガイド 中谷剛氏 母校佐野高校で講演

2017年12月05日 12時33分56秒 | 取材の周辺

 先日、満蒙開拓平和祈念館の関係者から電話があり、アウシュビッツ博物館ガイドの中谷剛氏が来館予定であると教えてくださった。私は早速中谷氏本人にメールを出し、関東近県での講演予定を伺った。すると、彼の母校である栃木県の佐野高校で12月4日、講演すると言う。

 佐野高校は、父の叔父がその昔、「博物(生物)」を教えていた。小学生の頃、お彼岸やお盆に、バス停に彼を迎えに行くのは私の仕事だった。そして家までの道のり、ポケットから明治の板チョコを出して私を喜ばせ、道端の雑草の名前や由来を教えてくれるのが常だった。栃木中学(現 栃木高校)時代の教え子が国会議員になり、彼の忖度で、亡くなる前に勲4等瑞宝章を受章したことを、父は自分の事のように喜んでいた事を思い出す。その父も亡くなり、実家の家屋敷は菩提寺に寄進し、永代供養をお願いしている。

 私は佐野女子高の卒業生なのに、故郷の教育事情にとんと疎遠になっていた。クラス会もしばらく開かれていない。現在は、佐野高校も佐野女子高も共学になっていて、母校は佐野東校と名前も変わっていた。佐野高校は中高一貫校になっていて、中学で3クラス、高校入試で1クラスの募集だという。私の頃には9クラスあったので、その話を聞いて今更ながら少子化を実感する。隣の足利高校と足利女子高も、近々統合されて1校になるという。

 また、佐野高校は、平成28年度から、文部科学省のスーパーグローバルハイスクール(SGH)の指定を受けたそうで、今回の中谷さんの講演は、その一環であった。

 体育館には、中高生、700名以上と教職員、PTA関係者、報道関係者など、総勢800名近くが集まっていた。講演全体が中高生向けのものなので、最初は、ご自分の子供時代の経験から現在の自分につながる出来事を話してくれた。

 「よそ者」という言葉が講演全体のキーワードになっていたように思う。中谷氏はもともと関西の出身で、小学生の時、足利市の御厨小学校に転校してきて、関西弁しか話せない自分を「よそ者」と意識し始めたという。それが、ご自分の強みにもなって、現在につづいていると。

 詳細は、講演のビデオを直接見ていただきたい。本人の了承を得ましたので、私のホームページで期間を区切って、12月10日から31日まで、公開します。http://kikokusya.wixsite.com/kikokusya/blank-35

 2年前の10月にアウシュビッツを訪ね、中谷さんの案内でアウシュビッツ博物館を見学した。その時の様子はこのブログに書いたことがある((2015年11月01日 )。その旅行の前に、現・飯田日中友好協会理事長の小林勝人さんから歌集『伊那の谷びと』が送られてきた。その本を読んでいたことが影響していたのかも知れないが、アウシュビッツ訪問時、「短歌のようなもの」が、降りてきた。短歌など作ったこともなく、短歌とは無縁に生きてきたので、ルールも何も知らない。ただ泣きながら作った。いい機会なので、このブログの最後に記録しておくことにする。

 中谷さんは、アウシュビッツ・ビルケナウに毎日いてガイドをしていて苦しくないのかしらと思う。私は3時間余りしかいなかったが、とても苦しかった。

 また、中国残留孤児・残留婦人のインタビューをして背景など調べるために先人が書いた手記など読んでいるととても苦しくなることがある。最近の事では、『さいはてのいばら道―西土佐村満州開拓団の記録―』を読んでいた時もそうだった。「おかあちゃん、死んじゃいややー」と叫んでいるのがいつの間にか自分になってしまっているかのように、感情移入してしまう。そうするとしばらくそういう事の一切合切、すべてから離れて、ミシンを出して悪戯したり、無心に草取りしたり、シフォンケーキを焼いたり、タルトタタンのレシピを探したり、友達を呼んで海の幸の贅沢カレーを作ったり、温泉に行ったりして、気分転換をする。時々気分転換が長引くこともあるが、自分の精神衛生が一番大事と割り切って、気の進まないことは敢えてしない。我が儘を貫いている。今、その真っ最中にいる気がする。彼はそういうつらさに襲われることはないのだろうか?生活の糧と割り切れるのだろうか?アウシュビッツ・ビルケナウの大地からのエネルギーに負けそうになる時はないのだろうか?そんな時はどうするのだろう。抜け出すにはどうしたらいいのだろう。この頃は、抜け出さずにグズグズしている自分と馴れ合って「まーだだよ!」と、しゃがみこんで頬かむりしている自分がいる。

 

<以下、アウシュビッツ連作短歌>

 

七十年アウシュビッツの地に生きる白樺大樹の水脈の音聴く

 

「働けば、自由になれる」逆さのB 込めし反骨わずかな自由

 

一瞥できめられしとふ労働かガス室送りかそこに医師居り

 

博物館(ミュージアム)にジェノサイドの記憶ありありとメガネ、革靴、毛髪の山

 

ありありふれた 家族 日常 そのどれも 愛しきものと遺品は語れり

 

立ち尽くすわが目の前の靴の山小さき靴の赤つきまとふ

 

やわらかき髪を梳きつつ明日を語る果たせぬ明日持つ幾万の髪の毛

 

命を生み育むといふ平凡を生き得ず毛髪の山を残せり

 

毛髪で織られし絨毯見てしより無声映画の中をさまよふ

 

諦めて抗うことなくガス室に走る少女らの裸体「よく見よ!」

 

 クレマトリウムの煙突からは人燃ゆる煙見えけむ人燃ゆる煙

 

生き抜こう生きたいといふ強い意思で死体運びす特命労働隊

 

「死の門」に生への渇望運び来て引き込み線の錆荒びおり

 

降車場の有蓋貨車はそこにある百六十万余の命を運びて 

 

 落ち葉踏み己が呼吸を整えよホロコーストのありしこの地で

 

「死の壁」に花束供えし人のあり近寄りがたき祈りのすがた

 

幾百も連なるビルケナウの収容棟みぞれ降るなり墓石なき墓地

 

 想念をショパンのエチュードに乗せて胸苦しさを回避せんとす

 

土曜には隣の小さな教会で結婚式もある絶滅収容所

 

誰も皆泣くわけではないうろたへる自己をこっそりしまふ午後あり

  

ワルシャワはあまた戦禍を越え来たり修復痕もつ煉瓦に触るる

 

ルブリンの野生林檎の落葉やまず林檎残れり初雪抱きて 

 

ゲットーのあまたありけむルブリンで乳母車坂を登りて消ゆる