「アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言」ゲストブック&ブログ&メッセージ

左下のブックマークをクリックするとホームページ「アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言」にアクセスできます。

「日中国交正常化45周年・「中国残留邦人新支援法」成立10周年 記念のつどい」

2017年12月02日 00時14分49秒 | 取材の周辺

 

 11月11日、高知市自由民権記念館で、高知県中国帰国者の会主催の「日中国交正常化45周年・「中国残留邦人新支援法」成立10周年 記念のつどい」が開かれた。私は参加できなかったが、四国に住む大学時代の友人が参加して、その時の配布資料をわざわざ送って来てくれた。自由民権記念館は平和資料館・草の家のすぐ近くだそう。会場は満席で立っている人もいたという。長い間、県内の分校の教員をしていた友人は、どこに行っても知り合いが多い。この日も受付に友人がいて言葉を交わしたそうな。配布資料は中国語と日本語で用意されていたが、中国語の方はすぐになくなってしまったということだ。

「中国残留孤児がたどってきた道と日本社会に問いかけたこと」というテーマで、最初に神戸大学の浅野慎一先生の講演があったとの事。レジメでは丁寧に時系列に沿って問題点が、整理されていた。そして、たぶん国家賠償訴訟を通して見えてきた政府の考え方と帰国者の受け止め方の違いには、多くの時間を割いて問題点を投げかけたのではないかと推察される。そして、「新支援法の意義と限界」では、「国の責任を明確にしたものではなく、恩恵的な自立支援」と、その例を列挙されたと思う(レジメにあるので)。最後に、「「中国帰国者が日本社会に問いかけたこと」とは何か?」では、「語り継ぐべき戦争被害者」だけでなく、「言葉と文化の壁」だけでなく、歴史・社会・政治・行政・国際平和の問題にまで踏み込んで考えるべき問題と。

 あー!聞きたかったなぁー。20年以上前に会ったきりなので、挨拶しても気付いてもらえないだろう。昔は家人にトドと呼ばれていたが、今は「うちのクマさん」と呼ばれている。時々娘が宇多田ヒカルの「ボクはクマ」を私をからかいながらふざけて歌うと、原曲を聞いたことのない夫まで、相和して歌う。所沢の帰国者センターが閉鎖になる少し前、コピーしたい本があり、伺ったが、先生方は20年間の私の太りように唖然としておられた。その時お会いできなかった先生に、今年4月の聖蹟桜ヶ丘の拓魂祭でお会いし、挨拶をしたら、「誰ですか?」と、言われてしまった。数年間、プロジェクトで月1回は会っていたというのに。

 話を戻そう。レジメを読んだ私の感想。常に帰国者の立場に立って研究を進めてこられた浅野先生らしい講演だったのではないかと推察します。中国帰国者は、ともすれば「語り継ぐべき戦争被害者」としての側面にのみ、多くの光が当てられてきたのかも知れません。それは一番大事なことに違いありません。まず知ってもらう事。彼らのひとりひとりの人生が、日々、どのような喜び悲しみで彩られ形成されてきたのか。日本人には想像もできないことを彼らは経験してきたのですから。そして、そこから彼らは立ち上がった。国家賠償訴訟では、ただ泣いているばかりの戦争被害者から、力強く各地で戦う姿を示した。

 長く中国帰国者問題と言われてきたのは、実は帰国者を受け入れ始めて見えてきた日本社会の問題だった。そしてそれが、ともすれば、言葉(日本語習得)と異文化障壁の問題に安易にすり替えられてきたのだ。それが、押し込めきれず噴出した80年代、各地の第二種県営住宅などで発生した地域コンフリクト、子どもの居場所をめぐる問題として顕在化したチャイニーズドラゴンの発生(暴走族のTOPに残留孤児二世が)、日本語学習に夜間中学が果たした役割(岩田先生はお元気かしら?)、様々な出来事が思い起こされる。

 日々様々な記憶が薄れていくので、覚えていることを記しておこうと思う。最初に東京で先行裁判をしようという話になって、当時の中国帰国者の会の事務局長・長野さんと会長・鈴木則子さんを中心に、岩田先生、庵谷巌さん、石井小夜子(弁護士)さん、私で集まった(名前は忘れたが、もう一人、都の福祉行政に長年携わっていらした方がいたと思う)。

 その後、何度か話し合いがもたれたが、私は一身上の都合(たぶんこういう時に使うのがもっとも適切な言葉なんだと当時を振り返る)で参加できなくなった。その後、結審してから裁判記録が送られてきた。私の修士論文が、裁判の証拠品として使われたことも知った。それは、昔、東京都作成の「自立指導員の手引き」に書かれていた『中国帰国者は、自分が自立(生活保護脱却)してからでないと、家族を呼び寄せてはいけない』という内容だったと記憶している。そのように言われた帰国者の証言と共に、記されていた。

 同志としていろいろなことを話し合った長野さんが亡くなったことも知らずに年月は過ぎた。

 当時、飯田橋にあった弁護士会に呼ばれ、帰国者の援護政策について話をさせていただいたこともあった。その場に弁護士ではないけれど、菅原幸助さんもいらした。資料をたくさん持って行って、しばらくお預けしていた。2年前にそのことを思い出して返していただいた。その資料を見ると、その頃の情熱がどこから湧いて来たのか不思議な気がする。今は、やりかけの仕事を、「やらなきゃ、やらなきゃ。」と思いながら、いっこうに進まないのである。

 老害に入りつつあると感じる日々。大学生から卒論のために問い合わせなどあると、嬉しくてホイホイ協力してしまいます。ただし、紹介依頼があった時は、メールだけでなく学生本人に会って帰国者の承諾を得てから紹介しています。若い人が興味を持って調べてくれるのはとても嬉しいことです。この仕事も、若い人に引き継いでいきたいと感じている今日この頃です。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿