気の広場

気の世界あれこれ・・・
  日常雑感あれこれ・・・

母 ・・・226. : えらぶらない ・・・ 幼少の子をかかえながら なぜ

2011-01-15 06:00:37 | Weblog
女性を家庭の奴隷にしようなどという発想はどこにもありません。


社会の情報をチェックして

母親を盲目な人間にしようなどとはいささかも思っておりません。



母性保護のための社会施設や

母を苦しめる受験本位の学校制度

あるいは

企業の学歴主義は ・・・ 革命すべきだと考えています。


そうした社会革命は ・・・ 父母共通のテーマです。



だからといって

母のいつくしみとこまやかさを必要とする幼少の子をかかえながら

なぜ 母は

  「外」へ働きに出たり

   車を乗り回したり

  ファッションや外食の楽しみを求めたり

  自由な時間とお金の所有

    ・・・ が叫ばれねばならないのでしょうか。


夫と二人で築く家庭や

  愛するわが子を世話する日々から

    ・・・ そんなに学ぶものはないのでしょうか。



いま女性は「三界に家なき」身ではありません。


地域社会で家庭の幸せを守るために

  市民として生活条件は ・・・ いくらでもあります。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・225. : えらぶらない ・・・ 母性の扼殺(やくさつ) 

2011-01-15 05:23:03 | Weblog
文芸評論家の江藤淳さんは『成熟と喪失』という本のなかで

  すでに「外へ憧れる女性」を主題に分析を加えています。


彼は こうした感情は「近代日本」が女性に植えつけた

  一番奥深いもので ひとことでいうなら ・・・

それは

「女であることへの嫌悪」であり

「妻や母を嫌悪の対象」とする感情なのだという。


そして だからこそ

妻や母は 自己嫌悪の裏返しとして

  夫や子の働く「近代」の世界(外)に憧れ

そこに「幸福の幻影をみよう」とする。



では その結果与えられるものは何か。

江藤氏は

第一に 母性の「破滅と死 つまり完全な自然の死である」

第二に 母性の「自己破壊は子どもまでも共犯者に仕立てる」

いいかえれば

子どもに勉強を強制し
 
学歴と出世を願い 外へと上昇することで

  世間から置き去りにされる不安を取り除こうとする。

・・・ これだと指摘します。



その通りだと思います。

いかに言葉をとりつくろっていようとも

母や妻の外部志向は

  「置き去りの不安」

  「女であることの嫌悪」

  「女として生きることへの不満」があり

その風潮が

  「母性の扼殺(やくさつ)」となってあらわれています。




* 2010.11  東ブータンで




 

母 ・・・224. : えらぶらない ・・・ 生活評論家のクチグルマ 

2011-01-15 05:22:02 | Weblog
むかし ・・・ ( を免罪符に使わしてくださいなぁ~ )

樋口恵子とか桐島洋子 犬養智子 吉武輝子とかいう

  「生活評論家」といった肩書きの人たちが ・・・
 
口をそろえて

  「 家事を上手にサボリなさい 」

  「 外へ出て勉強しろ

      女として遊ぶチャンスがないと子どもに対して

        ゆとりをもってつきあえる母にはなれない 」

  「 子どもは夫と妻の二人の責任だから

      父親も育児に参加させなさい 」

  「 子どもを託児所にあずけて

      どんどん外に働きに出よ 」

・・・ と オソマツなことを叫んでいました。



( 最近も ・・・
    負けず劣らずオバカサンな生活評論家は多いですがぁ~ )



この人たちに共通していることは

あらゆる発言が

  「外」への視線のもとに行われているということです。


社会に働きに出ること


外で遊ぶこと


内より外へ目を向けることが価値ある生活であり

家庭の仕事に専念し いそしむことや

自己の内部に目を注ぐことは

  「凡庸」な価値の低い 女をみじめにするものだと考える

  ・・・ それが オバサン評論家たちの信条でした。



つまり

家庭には人間成長の叡智を開発する力はない

そんな暮らしに満足しているようではダメだ

外に生きてこそ幸せはあるのだ

  という「非凡」のすすめと礼讃を

              ・・・ ワメイテいたわけです。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・223. : えらぶらない ・・・ 思いこみの母 

2011-01-15 05:21:02 | Weblog
母が 博士であっても 優秀な技術者であってもけっこうです。


しかし

母として 家庭にいるときには ・・・ 平凡であって欲しい。



演壇で講演したり

職場で人を指図する感覚や生活態度で家人に接することは

  家庭の不幸のはじまりである

  ・・・ ことを深く自覚してもらいたい。



ところが現実には

外でえらぶり 活発に働く母親は ・・・

とかく平凡な母であることの幸せを

  苦々しく想い 否定しようとします。


家庭にしばられる女の不幸=家事に専念する母

  といったパターンでとらえようとします。


掃除や料理 育児が

  「とるにたらない」 「くだらない」ことであり

外に生き 男と対等につきあうことが幸せなことだ

  ・・・ と思いこみます。




* 2010.11  東ブータンで