気の広場

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母 ・・・280. : 荊(いばら)の道 ・・・ 同悲共楽

2011-01-23 14:00:04 | Weblog
母が子どもだけを責めず 自分も一緒に苦しむのは

わが子を「生命がけ」で生み

  そして育ててきた「現実」があるからです。


母には 「自分ひとりだけ」がない。

この尊さは

女性の生理をつらぬく妊娠 出産 育児の痛みが

  ・・・ 母にもたらしてくれる栄光といえましょう。


父には この「自然」な

  「同悲共楽(ともにかなしみともにたのしむ)」の喜びが少ない。

父の不幸がこれです。



母をたっとぶことは 女性を大切にすることです。

女人をいたわる心は ・・・ 母への思いやりに通じています。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・279. : 荊(いばら)の道 ・・・ 受験生の母の白髪(しらが) 

2011-01-23 12:00:31 | Weblog
あるお母さんが 息子の受験が終え

  合格通知を手にして訪ねてこられた。

長い間つらい毎日を過ごし

  迷い苦しんで相談にきていたお母さんです。


私は 久しぶりにその母を見て驚いた。

額のはえぎわから数本の白髪がはっきりとみえる。


私は 涙の出る思いでした。



かたわらにいてニコニコしている息子さんに 私はいいました。

「君 お母さんの白髪に気がついたかね」

「いえ」 といって母をふりかえり

「あっ いつできたの お母さん」 とびっくりしていた。

「馬鹿ね 大きな声出して」 お母さんは笑っています。

「もう齢(とし)なんですよ」

「でも ついこの間までなかったぜ」 息子は首をかしげていた。

  ・・・ 子どもは勉強に夢中で気づかなかったのでしょう。

「お母さん いつできたのです」 私がきくと

「はい 受験の前日にできて 合格発表日までに少しずつふえました」

  とはずかしそうにおっしゃる。


これが母心です。

たった数日で白髪ができる。

子どもは この母の苦しみが分からないかも知れない。


子どもに食欲がなければ 母の食欲もへる。

子の受験は また母の受験でもあるというきびしさは

  ・・・ 子どもには分かりにくいでしょう。


しかし

そこまで心労してくれる母のような人がほかにいない

  ・・・ ことだけは知るでしょうね。




* 2010.11  東ブータンで






母 ・・・279. : 荊(いばら)の道 ・・・ 「茶断ち」 「塩断ち」 

2011-01-23 10:00:21 | Weblog
いまでは少なくなりましたが ・・・

むかしは 子どもが重病にかかったり 非行化すると

「茶断ち」「塩断ち」をして

  ・・・全快を祈り 更正を願ったものです。


野口英世の母もそうでした。



塩を断つことは「生命をかける」ことです。


この母心は

  生み育てた子への母の愛と責任の倫理によるものです。

そうした子を社会に送り出し

  あるいは 送り出す前に傷つけてしまったことへの

  ・・・ 痛烈な自己断罪(せめつけ)がそうさせるのです。



「茶断ちなんて古い」と笑う女性がいます。


型の問題ではありません。

生命を削っても ・・・

  という荊(いばら)の道を歩もうとする「心」が大切なのです。

この母心は 人間以上のものです。

仏教でいう ・・・ 「菩薩道」です。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・278. : 荊(いばら)の道 ・・・ 生命がけの意味 

2011-01-23 08:00:18 | Weblog
人間にとって最後のものは「生命」です。


その最後のものをかけての仕事が 人生にとってもっとも尊い。

母はその神聖な「生命がけ」の仕事によって子を生む。



父のうちには 一生「生命がけ」の仕事をしない人もいる。

母は 母となったとき 死を決して仕事をすませているのです。


フランスの小説家モーリアックが

「 母親というものは 文字通り生きたまま食い尽くされ

  一寸刻みに殺される 」

  ・・・ それが母の喜びだといったのは このことでしょう。



無痛分娩のための麻酔薬をうつのも 帝王切開するのもいいでしょう。

しかし

母は なぜ自然が 出産の痛みを自分たちに与えたのか

  その根源にある「生命がけ」の意味を忘れてはならないのです。


母が 子どもの病気をみのがして一人遊びにゆけないのも

あるいは

自分は自分 子どもは子供だと割り切って

  自己愛に埋没できないのも

  ・・・ 自分が生命にかけて子を生み 育ててきたからです。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・277. : 荊(いばら)の道 ・・・ 出産 

2011-01-23 06:00:05 | Weblog
妊娠 出産は通じての苦しみは 病苦ではありません。

胎児がこの世に出るための自然の痛みなのです。


人類何万年来 母は 生まれ出ようとする子のために

  「与えられた苦しみ」を喜んでうけいれてきた。

母は 無理に苦しんでいるのではない。

いらぬ苦しみを味わっているのではありません。

出産苦は 母に課せられた「自然の」 当然の苦しみなのです。



母は この「苦の日」のために覚悟する。

なんでもなく産み落せるなら 覚悟もいらない。


身二つになる現実に 生命を代えてもと決心するのは

  女は苦しまねば母になれぬ「自然の掟(おきて)」に

  ・・・ 従おうとするからです。



その痛みと死の予感があればこそ

  ・・・ 父性の遠く及ばぬ母性の愛が生まれてくる。



それほどの苦に耐えてくれた人なればこそ

・・・ 子どもは 母への不思議な憧れをいだく。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・276. : 荊(いばら)の道 ・・・ お産はいのちとり

2011-01-23 04:04:04 | Weblog
「お産はいのちとり」といいます。


釈尊の母も7日にして世を去りました。

ローマ帝国のすぐれた皇帝ユリアヌスの母もそうでした。



出産は死を覚悟し 死の恐怖と闘い 克服して

  ・・・ 新しい生命を生む。

女性の生理のみが果たす「死と生」の苦闘です。

こうして母が誕生する。

母は 一回死を経験した人だともいえるのです。

毎日毎日 胎児に自らの肉体を食われ

  つわりに苦しみ そして死の苦痛に耐えて子を世に送り出す。

  ・・・ それが母です。


その喜びもまた 父は知ることができない。

・・・ 母のみの特権です。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・275. : 荊(いばら)の道 ・・・ 生命をかけて

2011-01-23 04:03:01 | Weblog
女性は 十ヶ月もの間「妊娠」という労苦に耐えてくる。

その間には 酷暑の日もあれば 凍るような寒い日もある。



「身重」とは 全身に「重荷」を荷(にな)った苦しみです。

そのつらい躰(からだ)で台所の用事や洗濯ものをする。

胎内に育つわが子のために

  苦しくとも躰を動かし きたえなければならない。

嫌いな食べものも摂らねばならない。



さらに十ヶ月後に「生命をかけて」子を生む。


岡部さん(母 ・・・273)は こういっています。

「男女が愛し合った時、男に死の予感はあるまい。が、女の身体には死の危険がちらつく」



受胎を知らされたとき、女性は喜ぶ。

その歓喜は女だけのものかもしれない。


しかし

妊娠後の苦しみも また母となった女性のみのつらさでしょう。


そのクライマックスが「分娩」です。

・・・ 「予感した死」とのめぐりあいです。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・274. : 荊(いばら)の道 ・・・ 生理への感謝 

2011-01-23 04:02:02 | Weblog
母をたたえる心は 女体の生理への感謝でなくてはならない。


逆にいえば

女の誇りは その生理の力で

  妊娠し 出産し 母となれる喜びだともいえましょう。



男が 女性の声に惹かれ 肢体の美しさや乳房に憧れるのは

  ・・・ 女の性 生理への讃歌といってもよいのです。


この「女の生理の特質」をふみにじれば

  女性は屈辱を味わい 女であることを嫌悪する

と同時に それは男が

  母となる女人の躰(からだ)をさげすむことにもなるのです。




* 2010.11  東ブータンで