気の広場

気の世界あれこれ・・・
  日常雑感あれこれ・・・

母 ・・・286. : 梅雨(つゆ)のように ・・・ 染みとおる 

2011-01-24 09:00:23 | Weblog
たしかに父の叱り方は「夕立」のように雷鳴をおびて落ちるが

母は 梅雨のように

  じくじくと奥深く水分がしみこんでゆく叱り方をします。



夕立は一度に多量の雨を降らすが 晴れればすぐ乾いてしまう。

地中へしみこんではゆきません。

強く はげしいが浅い。


梅雨の雨は少しずつ ねちねちと降りつづきながら

  ・・・ 大地へしみ入ってゆく。

弱々しい雨だが 深い。

ゆるやかだが 長い。

植物や野菜類は ・・・ この梅雨の恩恵によって育ちます。



人間も同じです。


母の急がず 休まずくり返す「しつけ」の努力 反省の糧によって

  ・・・ 子どもはすくすくと育つのです。


父親の夕立の怒りだけでは 子は育たない。

お先走りしない 目先の変わりない母の怒り方があって

はじめて子どもの胸の奥深く

  ・・・ 人間らしさが染み通ってゆくのです。





* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・285. : 梅雨(つゆ)のように ・・・ 叱り方 

2011-01-24 06:37:27 | Weblog
父と母の息の長さのちがいは

  子どもの叱り方みていてもよくわかります。


父のしかり方は 激怒と懲悪です。

短く 激しく 息が短い。


母の場合は 入梅どきの雨のように

  じとじと しとしととふりつづきます。

大きな声も出さず 同じ文句をくり返し

  いきり立たず 長い時間をかけて叱る。

一度にガーッと叱らず こんこんとやさしく 強く

  子の心の波動を読みながら ・・・ 説諭する。


ある人は母の叱り方は 印刷の輪転機のようだといいます。

友松先生は「つゆのようなもの」と評しています。





* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・284. : 梅雨(つゆ)のように ・・・ 母心に学ぶ

2011-01-24 05:46:02 | Weblog
母には 天性の力がそなわっています。



雑草のような強さといい

母なる大地 母なるボルガという言葉といい

  ・・・ 母の自然な息の長さをいいあらわしたものでしょう。


アメリカ大統領だったウィルソン」は

「大統領とは

  運動選手の体力と母の忍耐力がなければつとまらない」

  ・・・ といっています。



母が 家事をくり返し 子どもへの注意をくり返して倦きないのは

  その力が父のように人工的なものではないからです。


ラッセル卿がいうように

戦争や迫害が倦怠からの逃避だというなら

  それは父の性質を意味しているといってよいでしょうね。


平和がつづくと戦争し 戦争に倦きると平和を求める。

その人間の愚行は

  父親(権力)に倦怠に耐える力が欠けていた証拠です。



今日の父心の復活とは

  倦怠に耐える能力を父自身が培(つちか)うことです。

それは ・・・ 母心に学ぶことです。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・283. : 梅雨(つゆ)のように ・・・ くり返し

2011-01-24 05:45:02 | Weblog
飽きないということはどういうことなのでしょうか。


いつも新鮮味に富んでいることでしょう。

あるいは 新味を発見する心があるともいえましょう。


もし 母親の「くり返し」が流れ作業の労働と同じものだったら

  飽きてくるし 逃避したくなる。

新鮮味も失われてくる。 いやになってくる。


それこそ

喧嘩の変わりに器をぶちこわしたり 夫にふっかけたり

  パーッと外へとび出して 二、三日外泊したくなる。


子どもを虐(いじ)め 迫害し

  飼犬を蹴とばしたい衝動にかられる。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・282. : 梅雨(つゆ)のように ・・・ 倦怠(あきる) 

2011-01-24 05:44:02 | Weblog
人間は 反復が嫌いです。


「モダンタイムス」のチャップリンは その悲劇を描いたのでしょう。

くり返しの連続は非人間的なものです。



心理学者は 倦怠(あきる)とは

  何か他のことへ転換せよという疲労の命令だ といっています。

倦(あ)きたら べつの仕事にふみきれ

  それが新しい活動の原動力だ というのです。



「倦怠からの逃避として ラッセルは 戦争 虐殺 追害を上げ 少なくとも 人類の害悪の半分は倦怠を恐れるあまり犯されたものだ」

と 宮城音弥さんは『人間の心理学』で紹介しています。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・281. : 荊(いばら)の道 ・・・ 敬愛 

2011-01-24 05:43:00 | Weblog
女性は母となり 無心に生きてくれてこそ 尊い存在なのです。



女性の幸せは

  菩薩道によって人間の幸福を切り開いてゆけるところにある。

  才知や理論を越えた「母胎」の自然力にある。



私は 受験生の母の白髪みて その力に感動しました。
                    (母 ・・・279.)


女性が そうした母となることを嫌い

  家庭と子どもへの献身をうとましいものとして捨てるとき

  ・・・ 男は ますます女性を蔑むようになることでしょう。


母への尊敬が女性への敬愛となることを

  ・・・ 女の人々は知らねばなりません。




* 2010.11  東ブータンで