気の広場

気の世界あれこれ・・・
  日常雑感あれこれ・・・

母 ・・・242. : しつける ・・・ その行為 

2011-01-18 10:30:16 | Weblog
釈尊は「小さいから 若いからといって軽んじてはいけない」ものに

  四つあるとして

その一つに火をあげています。


「小なりとも 火は軽んずべからず」

  どんな火もなめてかかってはいけない。

油断すれば千軒の家を焼く大火となる。

火の性質を詮索することよりも

  「火」そのものの力を正しく評価しなさい と教えます。



釈尊が 火を例にして私たちに教えようとしていることは

「人間はその生まれのいかんにかかわらず 人間は同じなのだ」

  ・・・ という人間観です。


山から運んできた薪であろうと 石油だろうと

  こわれた箱であろうと 焚(た)けば同じ「火」である。

それと同じように 人間は平等の価値をもっている

  これを自覚することが第一だと ・・・ 釈尊は教えているのです。


ですから 釈尊は

「火はあらゆる薪より生ずる」といったあとで

「生まれにあらず ただその行為に由(よ)るべし」

  ・・・ といいそえています。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・241. : しつける ・・・ 平等

2011-01-18 09:00:56 | Weblog
釈尊は「 火はあらゆる薪(たきぎ)より生ずる。

     光焔(ほのお)は平等なり 」といわれてます。


もちろん

燃やす木によって

  火の色もちがうし 熱カロリーも変ってくる。


高温・高熱に達する燃料もあるし

  低い熱しか出せない材料もあります。

いちがいに

「火はあらゆる薪より生ずる」とか

「火は同じものだ」とはいえないかもしれません。



しかし お釈迦様は

燃料や材料の吟味 あるいは火の性質の分析よりも

そうした考えかたそのもの(火は薪によってちがうという差別観)を

  ・・・ 捨てなくてはいけない というのです。



火はたしかに種類はある。

燃焼力の区別はあるだろう。

だが 「ものを燃やす力」としての火の価値に

  上下の差別をすべきではないのだよ ・・・ と戒めておられる。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・240. : しつける ・・・ 生まれたときは白紙

2011-01-18 07:00:50 | Weblog
「しつけ」は母の自然の感化だ ということは

  いったいどんな考えからでているのでしょうか。



人間にたいする平等感です。


どの子もみな同じ人間なのだ という考えから

  ・・・ しつけは生まれてくるのです。


生まれたときから

なにかくせがあってどうしようもないのでしたら

  ・・・ しつけは無意味です。


食べさせて大きく育てることはできても

  ・・・ 精神的に なにかをはぐくむことはできません。



子どもは生まれたとき白紙で みな同じだから

・・・ くせづけも しつけも施していけるのです。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・239. : 動かぬ土台石 ・・・ 動かぬ母の心 

2011-01-18 06:08:01 | Weblog
残念なことに ・・・
 
今の社会は 母屋の安らぎと 子どもを待つ母心を

  ・・・ さらに踏みつぶそうとしています。


故郷へ帰らぬ若者が都会に氾濫し

人ごみのなかにまぎれこみ

ゲーム 買物などで ・・・
 
わずかに虚ろさを慰めている青年が増えているはそのためでしょう。


若い母は「外」に光を求めてさまよい

  安住の喜びを嫌悪にかえようとしています。

母心の喪失です。



その結果は

ますます世の中を荒削りのおぞましさに塗り変えつつあります。


これでよいのでしょうか。


可愛い子どもたちが ・・・

たった一度のその人生を 川面を流れる木の葉のように

  安住の地もなく漂泊し
 
  ・・・ 浮浪しつづけていってもよいものでしょうか。



フーテンの寅さんの映画は

  多くの人々に共感と涙をさそいました。

しかも その秘密のカギが

  故郷と母心への回帰にある ・・・ ということを知りました。


私たちは

現代社会がいかに強く はげしく 母屋を求め

  動かぬ母の心を探求していることか ・・・

あらためて ・・・ 噛みしめなくてはならないのです。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・238. : 動かぬ土台石 ・・・ 密房

2011-01-18 06:07:01 | Weblog
母親は野心家ではありません。


いつも同じところに安住して

  辛抱づよく待っていてくれる「動かぬ土台石」です。


自分を動かさないで 子どもや父を動かす力をもった存在です。



そして 子どもらがいない間 ・・・

蜜蜂が一夏のうちに せっせと蜜を貯えるように

我慢づよく 黙々と家を整え 食べ物を用意し

  ・・・ いつでもどんな要求にも応じてやれる準備を果たす。


子どもは むらがる蝶のように

  この密房に貯蔵された養分を吸いとって

  ・・・ また飛んでゆくのです。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・237. : 動かぬ土台石 ・・・ 求心力(もとめるちから)

2011-01-18 06:05:14 | Weblog
静止した「母心」という求心力(もとめるちから)があるから

子どもらは いろいろと外へ向かって

  ・・・ 遠心力を働かしてゆく力も出てくるのです。



不思議なもので ・・・

母親が家にじっとしていてくれると

  子どもは外へ向かってとび出してゆきますが

反対に母が不在だと

子どもはいじけて引っ込み思案になり

  ・・・ 家を離れようとしません。


それは海外雄飛と母国との関係でも同じです。


落着いた母国があってこそ

人々は遠く家郷を背にして ・・・ いずこえも去っていける。


母心は 伸びようとする子ども

  外に飛翔しようとする若者たちの安定力でさえあるのです。




* 2010.11  東ブータンで