気の広場

気の世界あれこれ・・・
  日常雑感あれこれ・・・

母 ・・・265. : 無心の喜び ・・・ 学ぶ    

2011-01-21 11:00:44 | Weblog
結婚してのち 子どもが中高生になるまで

おさんどんをしていたからといって「バカ」になってしまう母

十数年の結婚生活で人生の意味を何もつかみとってこないお母さんが

  いくら習い事をしても 勤めに出てみても

  ・・・ ロクなことができるはずがない。



「学ぶ」ということは その心さえあれば ・・・

夫との会話 子どもとのやりとり

  一冊の書からも ・・・ 無限に学ぶことができる。


その心がなければ ・・・

文豪の作品も 社会科学の本も「猫に小判」でしょうね。


時間がない というなら ・・・

  テレビをみる時間を少なくしたらいいでしょう。



創意工夫と根気のある母ならできることです。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・264. : 無心の喜び ・・・ つくすだけ   

2011-01-21 09:00:53 | Weblog
「自分」なんかどうなってもよいと「無心」になれば

  残るものは「つくすだけ」だけです。


何も求めず ・・・ 父と子に生きてやれる。

代償も欲しないから ・・・ サバサバしていられる。


そうした母を 父と子はけっして放っておきません。


母が負けまいとするから 父と子も勝手にしろといいたくなる。

一寸外出しても批判的な眼で見る。

夕食の内容にまで文句をつける。



無心の母なら

「母さん 二 三日出かけなよ」とすすめられる。

「お前たちを育てた十数年はほんとに充実した人生だった」といえば

  ・・・ 子どもは母に報いたくもなる。


38歳からあとの人生が

母にとって実り豊かなものであってくれるよう

  ・・・ 父と子も協力してくれる。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・263. : 無心の喜び ・・・ 苦しむ  

2011-01-21 06:30:27 | Weblog
38歳になるまで「無心」という人間の尊さに

  ・・・ 気づくことさえなかったのでしょう。

生きがいとは 他人(ひと)に生きることでえられるのに

  それすらつかめなかったあわれな「自分だけ」の母たちです。


この母たちに共通しているのは ・・・

第一に「自分があって」 ・・・ 家族があり

「自分のライフ・サイクルが決められて」

  ・・・ 子どもが位置づけされ

  ・・・ 父親が配置されているということです。


だから

「自分」と「自分の人生計画」を乱されまいとし

  ・・・ まっさきに問題となる。

そして ・・・ 苦しむ。






母 ・・・262. : 無心の喜び ・・・ 自分本位の母  

2011-01-21 05:30:17 | Weblog
いまの日本の母は はっきり二通りに分かれてます。


一つは「無心の母」

一つは「自分本位の母」です。



婦人雑誌や

  テレビのワイドショーでPRする母は「自分本位の母」です。

自分を捨てることの嫌いな母の発言です。

「もっと自分を生かしたい」「自分の人生が欲しい」

  ・・・ と彼女たちは叫ぶ。

「自分の生きがいを」 ・・・ と訴える。

「女」「妻」「自分」「主婦」という枠組みを気にして

  はずすのにどうしたらいいか迷い 呪っている人たちです。



「結婚するまでは自分の人生だったが

  あのあとは何もない ばからしい」

「女は38歳になって子どもに手がかからなくなると

  失業状態だ」 ・・・ カナキリ声をあげてます。


こうした母がいかに愚かな 聡明な知恵なき母であるかは

  ・・・ いうまでもありません。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・261. : 無心の喜び ・・・ 無心 

2011-01-21 04:23:56 | Weblog
母は子をもつが 母心は何ももたない。

無心です。



「有」には 限りがあります。

「無」には 限りがない。


犠牲になっていても

  自分自身は犠牲になっているのだという気持にならない。


始めも終わりもない。無始無終です。


子をみごもり生んだときから

  母は 自分という小さな「有」を越えて

  ・・・ 「無心」の人になっているわけです。

そして

「無」だから いつまでも飽きずに「不休」でいられるのです。

「無」だから 子どものなかに「融けこめる」のです。


「いつの間にか」 ・・・ 子どもを育てあげているのです。



だから

子どもを育てるのに「サイクル」を考えない。

生活設計で子どもを扱ったり

  自分の人生のサイクルに適応させようとしない。


ライフ・サイクルにあわせようと思うから

  ・・・ 少しでも予定が狂うとイライラする。

サイクル計画には ・・・ 計算と打算が入りがちになる。


そこで

子どもに何とかしてもらおうとする「代償」や「有償」が欲しくなり

期待に反すると ・・・

  「あんなに苦労して育てたのに!」と子どもが憎くなる。

また 子どもを邪魔に思う。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・260. : 無心の喜び ・・・ 「 無 」

2011-01-21 03:59:03 | Weblog
自分を「無」にすることくらいむずかしいことはありません。


人間には 自分への愛があります。

これを捨て去ることは容易なことではありません。



たいてい 宗教の力を借ります。


仏教では 人間が「無」になれないのは

  「渇愛」(タンハ)があるからだといいます。

愛に飢える心です。


それを捨て去らなくては 「無心」にはなれないと教えます。

このむずかしい自分を「無」にする心が ・・・ 母心です。

ですから

母の「無心」の犠牲は宗教的なものといえましょうね。



「無」というのは ・・・

いままで「有ったもの」が無くなるということではありません。

「無」は「非有」をさすのではないのです。


「非有」は「有」が一度なくなる状態ですが

  ・・・ 「無」は 「無い状態がつづいている」ことなのです。
              (*ここがとても大切なところです)




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・259. : 無心の喜び ・・・ 犠牲と愛 

2011-01-21 03:58:01 | Weblog
むかし 親の役目を社会と国家で肩代わりしようと

ソ連(ロシア)やドイツ(ナチス時代) イスラエルで努力してみました。


しかし 完全に子どもを親から切り離すことはできませんでした。


子の生育には どうしても親の犠牲と愛が必要なのです。



なぜ必要なのでしょうか。

子どもに 人間としての倫理をうえつけるためです。


人を愛し 人を助けるためには

自分を犠牲にし 無にする「無心」の精神がなくては

  ・・・ 不可能だということを教えるためです。


母が身をもって それを示すことで

  ・・・ 子どもの全身に烙(や)きつけるためです。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・258. : 無心の喜び ・・・ 献身と犠牲

2011-01-21 03:57:08 | Weblog
子どもを育てるということは 犠牲を払うことです。

それがいやだったら ・・・ 母にならぬことです。



母となって犠牲と献身を嫌うのは ・・・ 人間として失格です。

父も同じです。



母の内からの努力

父の外からの勇気によって人間は育ちます。



両親とも犠牲を払っています。

それが人間社会の輪廻(りんね)です。

めぐりあわせです。



私たちも そうした親の献身と犠牲によって育ったのです。




* 2010.11  東ブータンで