気の広場

気の世界あれこれ・・・
  日常雑感あれこれ・・・

母 ・・・257. : 無心の喜び ・・・ 別れ

2011-01-20 12:00:53 | Weblog
母と子には いつの日か「別れ」が訪れてきます。


「別れ」がやってくる前に
 
もうお互いの心が通じあわない悲しい毎日がつづくかもしれません。

しかし 母は世に巣立つ子をひきとめることはできません。

また してはならない。



母は その子が生まれたときから成長を祈りつづけてきた人です。

大人になるために苦労し 早く大きくなれとはげましてきた人です。



子どもは その母を食いつぶして大人になったのです。

大人になったということは 母の栄養分を吸いつくし

  屍(しかばね)にしてしまったことです。


あとは 自分の力で開拓してゆかねばなりません。


母は 屍を越えてゆく子どもに

  ・・・ 祝福を与えてやらなくてはならないのです。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・256. : 圧(お)しつけない ・・・ 「しつけ」の菩薩道

2011-01-20 10:00:16 | Weblog
母は 国から一文の補助をうけずに

  人間の「しつけ」(教化)をしています。


本当に尊いことです。


盲愛におちいらず つよさとやさしさで

  ・・・ 子どもを「しつけ」て下さい。



義理と人情の板ばさみの愛に泣く母心は 底が浅い。

母心とは そんなケチなものではありません。

「自分の子」などという狭い愛情にとらわれるのは

  ・・・ 母心ではありません。


母は 子どもを人間として成熟させ

  「世間に役立つ」ように育てる人です。


そこに「しつけ」の必要性があり ・・・ 重要性もあるのです。



無私 - 慈愛 - 薫陶 - 教化 - 出世間

この一つの道を 母は「しつけ」の菩薩道として歩んで下さい。




* ちょっと皮肉な書き出しにしました。
  このところ 補助だけはうけ
    ・・・ 「しつけ」をしない母親が なんと多いことでしょうか。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・255. : 圧(お)しつけない ・・・ 迷い

2011-01-20 09:00:55 | Weblog
子どもは迷える子羊です。

いや 大人になっても人間は迷いつづけています。


その迷いを解くのは ・・・ 父です。

迷える心を落着かせ 考えさせてくれるのが ・・・ 母です。


かばうだけが母ではありません。

突き放し 広く物思う心をもたせてくれるのが ・・・ お母さんです。

迷いに折り目を与えてくれるのです。



子が迷路に入りこんだとき ・・・

父は 高いところから火をふりかざし

  虚空に一点の照明をかかげて 道を示してくれる人です。

母は みえざる一本の糸の力で 子の心に忍びより

  道を見出し努力を失わないように はげましてくれる人です。


それが ・・・ 母の「しつけ」です。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・254. : 圧(お)しつけない ・・・ 折り目

2011-01-20 06:00:08 | Weblog
「母に似る」のが子どもですから

母が「圧しつけがましい」と

  子どもも自己主張の強い 我を張る人間になります。


「しつけ」のむずかしさは ここにもあらわれます。


いいかえれば

母と子の「折り目」のつけかたのむずかしさ ・・・

母の無償の愛の深さ 浅さのかねあいの困難さともいえましょう。



母は耳掃除もしてやる。

深い愛でつつんでやる。

はい はい ときいてやる。

こまやかな心づかいで見守ってやる。

しかし そのふだんやさしい母も

  ことに臨んでは 毅然として子どもに立ち向かう。


この折り目がなくてはならない。

薫陶を超えた「教化」「教育」の力の発揮です。

すわり直して こんこんと説く母の毅(つよ)さの発揮です。


つよさといっても それは理屈や暴力によるものではありません。


母の生活体験と知恵からほとばしり出る「道理」の教えです。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・253. : 圧(お)しつけない ・・・ 母と子の粘着性 

2011-01-20 05:00:46 | Weblog
盲愛 密着 圧しつけがましさ 愚痴っぽさ

・・・ それは一つの糸でつながっています。


そして

母と子の粘着性は 父を疎外するようになります。

父を遠ざけるということは

  「社会」(父)を押しのけてしまうことです。


また 父のイメージに結びつく「冒険」 「受難」 「忍耐」といった

力強さも奪ってしまいます。


これでは 母と子の愛は 子の成長にとってマイナスとなります。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・252. : 圧(お)しつけない ・・・ 「他人のようになる」息子・娘 

2011-01-20 04:30:19 | Weblog
ときには 子をこばむこともやむをえない。


小学校の高学年以上になったら

子の成熟のためには

  母は子どもを拒絶しなければならないことも出てくる。


そして

子ども自身順調にのびた子は

  母の圧しつけがましい浪曲的な愛をいやがるものです。

「お前と私はめぐりあいだよ」などという

  母の「圧しつけがましさ」をうとましく思います。


もっと自然に

・・・ やがて「他人のようになる」息子・娘をみて欲しいのです。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・251. : 圧(お)しつけない ・・・ 避けては通れない道 

2011-01-20 04:15:06 | Weblog
釈尊は 人間苦を「生・老・病・死」のほか ・・・


愛する人と別れる苦 ・・・ 愛別離苦

いやな奴と会い 彼を憎まねばならぬ苦 ・・・ 怨憎会苦

求めてえられざる苦 欲望増大のもたらす苦 ・・・ 求不得苦

物と心の働きがもたらす苦 ・・・ 五蘊盛苦

  ・・・ の四つの苦を加えています。


生老病死がタテ線の苦なら

  あとの四つ苦しみはヨコ線の苦といえましょうね。


愛別離苦 求不得苦は

  人間と物にめぐりあうところから起こってきます。


しかし 人間は それを避けては通れない。

としたら ・・・ 少しでも苦をやわらげる以外はありません。

母と子も ・・・ 同じことです。




* 2010.11  東ブータンで






母 ・・・250. : 圧(お)しつけない ・・・ 母子密着

2011-01-20 04:14:33 | Weblog
アメリカの母子の疎隔ぶりにくらべると

  ・・・ 日本の母子密着は異常なくらいです。


たとえば

母と子を「出会い」とか「めぐりあい」とする考えがそのひとつです。



めぐりあった二人は別れなければなりません。

ところが 会う喜びはかならず別れの苦を呼びます。


仏教では 「愛別離苦(あいべつりく)」は

  会う苦しみ「会苦(えく)」から生ずると教えます。

会った 出会った めぐり会った という気持ちがあれば

  ・・・ 苦しむのが人間です。


それを離れた気持 自然にそばにいて いつの間にか去ってゆく

  それが母と子だと覚悟しなければ ・・・

どうしてもかかえこみ つつみこみたくなり 手放したくなる。


この出会いという気持そのものが

  愛の密着をいいあらわしているのです。



母と子がつつみ つき放す関係をくり返さねばならないのは

めぐりあったことにもとらわれず

  別れることの苦しみをもつまいとする

          ・・・ 母の慈愛のあらわれなのです。




* 2010.11  東ブータンで