「第二の人生」を送っている60歳を超える年齢の高齢者の中の大部分の人達は、自分なりの目標となるものがあり、時には喜びや生き甲斐を覚えるといった生活を日々過ごして居て、他方で一部の人達は、これといった目標もなく、喜びや生き甲斐を覚えることも無いといった生活を日々過ごしている訳なのですが、いずれの側の生活をしていようとも、どんな「生活習慣」を基礎とした毎日を過ごしていようとも、「高齢者」である限りお年寄りは誰でも、「前頭葉」(「前頭前野」を言うものとする。以下、同じ)が、加齢に伴い機能を次第に老化させてきているという問題を抱えているのです(どのような「生活習慣」の下で生きていようと、65歳ころには誰でも例外なく、20歳代の前半の頃に比べ、私たちが「前頭葉」の三本柱の機能と呼ぶ、意欲、注意の集中力及び注意の分配力の働きが、半分程度に衰えてきているものなのです)。このことが、「アルツハイマー型認知症」を発病する為の「第一の要件」となるのです(これは、全てのお年寄りに「共通」する条件なのです)。発病の原因(メカニズム)としてこの条件が存在するからこそ、「アルツハイマー型認知症」を発病する対象者は、60歳を超える年齢の「高齢者」に限定されることになるという訳なのです。学者や研究者や医師達認知症研究の専門家と言われる人達は、「アルツハイマー型認知症」を発病する対象は、(脳の機能が、加齢による「正常老化」のカーブを辿って、一定のレベルにまで衰えてきている年齢の「高齢者」、60歳を超える年齢の「お年寄り」に限られている)という実態に目を向ける必要があるのです。日本全国共通の要件が実態として確認されるのです。
それでは、「高齢者」と呼ばれる年齢のお年寄りは誰でも、「アルツハイマー型認知症」を発病するのかと言うとそうではありません。「アルツハイマー型認知症」を発病することになるかならないか、何が/どのような条件の存在がそれを区分けているのか。それが今日のテーマである、「キッカケ」となる「生活状況」の発生とそれに対する、本人の「受け止め方と対応の仕方」の話なのです。
認知症全体の90%以上の割合を占めていて、世界中の認知症の専門家達から発病の原因(メカニズム)が分からないとされている「アルツハイマー型認知症」というタイプの認知症は、廃用症候群に属する単なる「生活習慣病」に過ぎないのです。私たちが規定する発病の「第一の要件」から、発病する対象は、60歳を超える年齢の「高齢者」に限られるのです。そうした年齢のお年寄りのうちで、発病する人達には、発病する明確な条件、私たちが発病の「第二の要件」として規定する条件である、生き甲斐なく、趣味なく、交遊なく、運動もせず、目標となるものも無いナイナイ尽くしの「単調な生活」の継続という「生活習慣」が必ず存在しているのです。その場合、ナイナイ尽くしの「単調な生活」に入って行く上での「キッカケ」となるものがどのようなものであるかについて、例示しながら説明していきたいと思います。但し、「キッカケ」とは何か特別のものという訳のものではなくて、「第二の人生」を送っている「お年寄り」であれば誰でも遭遇しそうなものばかりなのだということにも注意していただきたいのです。なお、例示した状況に対して、遭遇したお年寄りが全員ナイナイ尽くしの「単調な生活」に陥っていくわけではないことが重要なことなので、注意してください。すなわち、「キッカケ」に遭遇して、ナイナイ尽くしの「単調な生活」に陥る人と、そうでない人とを区分ける条件の存在にこそ注目して頂きたいのです。それが何であれ、当の本人が抵抗する気力を喪失し、立ち上がる意欲を喪失してしまった時、ナイナイ尽くしの「単調な生活」に陥入っていくことになり、結果としてそれが「キッカケ」となったということに注意が必要なのです。当の本人の受け止め具合こそがKeyとなるということなのです。
& 「キッカケ」の例示(例示事例に拘わらず、これらに代表される様々な事由、状況、態様及び程度があります。要は、そのことを本人がどう受け止めたのかの問題なのです。周りからの支援が重要となるのです):
□ 仕事の第一線を退くこと
(定年退職、家業の廃止、家業を息子に譲る、嫁に家事を譲る)
□ 世話役を降りること(子供や孫の手離れ、地域の世話役を退く)
□ 配偶者の死亡(特に、夫にとっての妻の死亡)
□ 兄弟姉妹の死
□ 趣味や遊びやお茶飲み会などの「集いの会」の中止
□ 重大な病気や怪我、身体上の不具合、配偶者の看病が継続する生活
□ 重大な災害により、財産や家族や友人や思い出を失うこと
□ 家庭内のトラブルや心配事の継続
□ 友人や自分自身の転居
□ ペットの死亡
□ 周囲との接触もない孤独な一人暮らし
□ 家族関係の悪化の状況下での心さびしい生活
& 「キッカケ」となることとは、どんなことなのか
「前頭葉」の脳の老化を加速させ、「アルツハイマー型認知症」発病の引き金となるナイナイ尽くしの「単調な生活」が始まる「キッカケ」となる「生活状況の大きな変化」の発生(或いは、「生活上の大きな出来事」の発生)とは、どんなことを言うのか。次の2つの類型に集約されます。分かりやすくする為に、ここではいくつかの典型的な事例を取り上げて例示的に説明しておきます。
※ 第一の類型(「生活状況の大きな変化」の発生)
波乱万丈というのは余りないケースだと思うのですが、私達が「第二の人生」を生きていく上でも、自分を取り巻く「生活状況」に、大小様々な変化が何時でも誰にでも起きてくるものなのです。幸運や不運、幸福や不幸、事故や事件、自身の健康上の問題、家庭内の問題、家族関係の不和、近所隣りとの関係、趣味の会での人間関係の軋轢など、自分を取り巻くそうした「生活状況(環境)」の変化や発生という状況が、様々な形で存在し、様々に変化していくものなのです。
時には、思いもよらない辛く悲しい、或いは寂しい状況や環境の変化が起きてくる中で、それでも頑張って生きていこうという「意欲」(状況や環境の変化に対する対策や対処の仕方を考え、従来構築してきた自分なりの「生き甲斐」を覚える生活を実践し継続していこうとする意欲)をこれまで支えてくれていた「核となる生活」が継続できなくなってしまうような「生活状況の大きな変化」が起きてくることが、ナイナイ尽くしの「単調な生活」に入っていくことになるキッカケの一つのパターンなのです。
○ 定年退職
現役で働いていたころから、趣味や遊びや人付き合いの機会をそれなりに持ち、「第二の人生」に入ったら、人生を思い切り楽しもうと考えておられる皆さんには意外なことと感じられるかも知れないのですが、この事例が意外と多いのです。「第二の人生」が始まったばかりだというのに、はやばやとボケていく、「アルツハイマー型認知症」を発病する人達の典型的なケースなのです。趣味や遊びや人付き合いや運動を楽しむ体験や機会が極めて乏しく、世に言う「仕事一筋」の「第一の人生」を送ってきた人(且つ、その「生き方」を良しとする「価値観」の人)にとっては、「定年退職」が「キッカケ」になるのです。
リーマンショックを経験して以降、自分が勤める会社(役所、組織)に対する考えかたや、或いは仕事そのものに対する世の中の考え方自体が大きく変わってきて、現在のわが国では、そうした価値観の人はむしろ少数派だと思うのですが、戦後の我が国の経済復興を支えてきた人達、今まさに「第二の人生」の中核を占めて生きている人達が現役世代であったころには、社会の主流派を占めていたのです。
「左脳」が中核となる「仕事」中心の生活だけを生き甲斐に、会社(役所、組織)への「滅私奉公」を厭わず「第一の人生」を送ってきた人は、定年退職や家業の廃止或いは家業を息子に譲って仕事がない「第二の人生」という毎日が始まり、日常生活を送る上で「左脳」を使う機会が極端に少なくなってきても、趣味や遊びや人づきあいや運動など、「右脳」や「運動の脳」を使う機会となる「テーマ」への切り替えが出来ないのです。達成すべき目標を設定したり、目標を達成していく過程で、喜びや生き甲斐が得られる対象となることが想像できないのです。その為、時間だけはたっぷりあるのに、することがない毎日、「前頭葉」(「前頭前野」のことを言うものとする。以下、同じ)の出番が極端に少ない生活、ナイナイ尽くしの「単調な生活」で日々を過ごすことになるのです。
文字通り「仕事一筋」(「左脳」偏重)の生き方で「第一の人生」を渡ってきて、そうした生き方に自分なりの満足感があり、その一方で、「右脳」(趣味や遊びや人付き合い)がらみの体験にも、「運動の脳」(スポーツや運動)がらみの体験にも極端に乏しかったのです。その為、「第二の人生」が始まったとき、「趣味とか遊びとか運動」とかに価値がおけなくて、そのような「些事」に熱中することが出来ないのです。そうした「些事」が、自分が(自分ほどの者が)「第二の人生」を生きていく上でのメーンの「テーマ」となるような日常生活には価値が置けないと感じる(自分は、そんな人生はやってきていないと考える)のです。
「第一の人生」からのそうした考え(「価値観」)を引きずるお年寄りは、やっと出会った(見つかった)趣味や遊びなのに、その「楽しみ方」を知らないのです。「趣味や遊び」なのに、そのやり方がまるで「仕事そのもの」なのです。「第二の人生」での「趣味や遊び」を楽しむそのやり方に、「第一の人生」での「仕事」を遂行するとき使っていた「ルール」を適用しようとしてしまうのです。自分だけならまだしも、周りの人達にもそうしたやり方を強要してしまうのです。その上、「第一の人生」での肩書(キャリア)を重要視し、「周りの目」とか、「周りが自分のことをどう考えているか」ばかりを気にするのです。
そうした価値観の人達は、たまたま何かの趣味(遊び)の会に入っていっても、趣味(遊び)を楽しむことができないのです。まるで、仕事を遂行するかのように、目標を立てて、その完璧な達成だけが目的となって、趣味(遊び)というテーマを考えたり、それらを遂行する過程自体を楽しむことができないのです。
こうした人達は、「左脳」(仕事)偏重の価値観が根底にあるので、「第一の人生」では顧みることもなく見過ごしてきた「テーマ」、結果よりも体験することや経過を楽しむことを価値とするような「テーマ」の設定ができないのです。趣味や遊びや人付き合いや運動も、全てが「仕事」を目的とするときと同じやり方(或いは、同じ「目標」設定のやり方)でしかできないのです。その結果、やっと見つけた「テーマ」も、(体験すること自体や体験する過程)を自分なりに楽しむことができないのです。仕事と同じように結果重視で設定した「目標」を達成できないことで、次第に意欲をなくしていき、途中でやめてしまうのです。
そして、一度失敗を体験すると、失敗を恐れて別の新しい「テーマ」には挑戦しようとはしないのです。終には、有り余る時間を持て余すことになり、ナイナイ尽くしの「単調な生活」を日々過ごす中で、出番が極端に少ない「前頭葉」が老化を加速させていくことになるという訳なのです。
○ 趣味や遊びの「集いの会」の中止
「趣味」も「遊び」も「運動」も「人付き合い」も、楽しむことが出来にくい生き方の中で、やっと見つけた「趣味」(遊び/運動)だけが生き甲斐の人が、その「趣味(遊び/運動)の会」への参加を中止せざるを得なくなる状況が発生するのです。あなた達なら、別の「趣味」(遊び/運動)の会に入っていって、それを楽しもうとすると思うのですが、それができないのです。
○ 親や兄弟、子や孫、連れ合い、友人等大事な人との「別離や死別」:
親や兄弟との死別で心が折れて、そのことが契機となり、ナイナイ尽くしの「単調な生活」に入っていくのは、或る意味で理解ができるのです。両親が共稼ぎの孫の親代わりとなって、孫の世話を一身に引き受けてやってきて、それが「唯一の生き甲斐」になっていた自分にとって、進学を契機に孫が自分から手離れていくと、もう何もしようとしなくなるのです。気が抜けてしまい、心に空洞ができてしまって、別の「テーマ」を探そうという気にもならないのです。そのまま、ナイナイ尽くしの「単調な生活」に入っていってしまうのです。連れ合いの死亡の場合は、有り様はそれぞれです。特に、おじいさんを亡くしたおばあさんは、喪が明けて何ケ月かが経過すると、不死鳥のようによみがえり、趣味や遊びや人付き合いを謳歌するようになる場合が多いのです。
○ ペットの死亡
ペットと言えども、大事な家族同様/家族の一員なのです。我が子のように可愛がり、何年間も「第二の人生」を共に生きて、自身が獲得する重要な生き甲斐や喜びの源泉となっていたペットの猫(犬)が死ぬと、立ち上がる気力も意欲も消え失せてしまい、何もかもが手につかなくなってしまうのです。まるで後を追うように、ナイナイ尽くしの「単調な生活」に陥入って行ってしまうのです。
※ 第二の類型(「生活上の大きな出来事」の発生)
本人から見て(客観的な評価ではなくて、自身の主観的な評価であることが重要)、生きる意欲をなくしてしまうような出来事が発生し、周囲にも言えず、自身では解決の糸口さえも見つけ出せないままに、その状況が継続されることで心が折れてしまい、拠るべき「テーマ」を探すことも見つけることもできないで居るうちに、ナイナイ尽くしの「単調な生活」に入っていくことになるのです。
○ 子供の失業や借金問題、孫の不登校など家庭内の「重大な心配事」の発生とその状況の継続:
子供の失業や離婚や借金問題、孫の不登校や非行問題など家庭内の「重大な心配事」が発生し、解決策を見いだせないまま、その状況が継続していると、趣味であれ、遊びであれ、人付き合いであれ、運動であれ、買い物その他の用事であれ、(何をしていても、何時も、何処にいても)、「心は何時も上の空状態」なのです。「心、此処に在らず」の状態のもとでは、脳の働き具合からは、「前頭葉」の三本柱の機能が働いていないのと同じような状態に在るのです。
(何時もそのことが気がかりで、心配で、心にかかっている)ので、何かの「テーマ」をやっていても、そのことに注意の集中力を働かそうにも集中できないのです。頭を回転させようにも注意の分配力が働かないのです。肝心の意欲も湧いてこないのです。外見的には、いろいろな「テーマ」をやっているようでいて、内心面、脳機能の実質面からは、「前頭葉」の三本柱の機能がちゃんと働かない、つまり何もやっていないのと同じような機能状態に在るのです。
こうした他人には言えない「身内の重大な問題」が発生した時、普段の生活状況では、趣味や遊びや人付き合いの集いに参加したり、スポーツや散歩を友人達とやっていたとしても、「心は、いつも上の空状態」で、何かを楽しむ心の余裕などないのです。家庭内の問題を抱える状況が発生し、継続していると、人に会うのも恥ずかしいので、趣味や遊びの集いにも次第に出て行かなくなるのです。だからといって、自分の力ではどうすることもできないため、いわゆる「老人性のうつ状態」と言われるような精神状態に陥りがちなのです(「うつ病」ではなくて、「老人性うつ」状態)。そのうち何かをする気力もなくなり、意欲もなくなってきて、家に閉じこもりがちの生活になっていくのです。生き甲斐なく、趣味なく、交遊なく、運動もせず、目標もない、ナイナイ尽くしの「単調な生活」に陥ち入っていくことになるのです。
○ 病気や肉体的悪条件の発生とその進行(自身の重い病気の発病や大きな怪我、激しい痛みを伴う足や腰、膝等の障害の発生と進行、重篤な視力や聴力機能の障害の進行等)
趣味を楽しんだり、人付き合いを楽しんだり、小旅行を楽しんだりする生活があって、それなりに生き甲斐や喜びを得られる機会があり、自分なりの目標や喜びや生き甲斐がある生活を送っていたのに、例えば大きな怪我(ex.骨折)をして長期間入院したり、重篤な病気になって床に臥せるだけの毎日を過ごすようになると、意欲や注意の集中力や注意の分配力が働く「テーマ」が何もない生活を過ごすことになるので(毎日のようにお友達が入れ代わり立ち代わり訪ねてきてくれ、世間話に花を咲かせるというわけにはいかないので)、その生活状況自体がナイナイ尽くしの「単調な生活」になってしまうのです。
「重大な病気や怪我や痛み等」を抱えたままの生活になれば、その病気や怪我や痛みが継続している間は、それまでのような趣味や遊びや人づきあいを自分なりに楽しむ、生き生きとした日々を送れなくなることは当然のことなのです。
注意しておかなければいけないことは、本人が重大な病気にならなくても「配偶者」が重大な病気になったことが「キッカケ」になることがよくあるのです。二人暮らしでがんばってきた老夫婦の相手が重大な病気にかかってしまった時に、その看病している側の方も看病で外出もままならなくなるし、趣味や遊びを楽しむことも許されなくなってしまうのです。毎日家に閉じこもって、「看病」をするだけの生活になってしまえば、肝心の自分の「前頭葉」も、出番が極端に少ない単調な生活の下で、老化を速めて行くことになるのです。病気の情報を集め、種々の工夫をして、つれあいの看病をすることに「生き甲斐」を感じることができれば、自分の生活もそれなりに、「前頭葉」が働く場面がそこそこある生活状態を保つことができますが、それは極めて稀なケースというのが現実なのです。
「高齢者」と呼ばれる年齢のお年寄りの場合は、例えば庭先で転んで骨折したり、変形性膝関節炎にかかったり、腰痛がひどくて、歩行が困難な生活状況が発生したりするのです。足が痛いと、ゲートボールや散歩にも行きたくなくなり、家にこもりがちの生活になってしまいます。そんな「閉じこもりの生活」が毎日継続していると、出番が極端に減った「前頭葉」が居眠りし始め、老化を加速させていく結果、「アルツハイマー型認知症」(小ボケ)の症状が出始める(発病する)のです。「前頭葉」の機能レベルを含む脳全体の機能レベルを、「二段階方式」のような精緻な「神経心理機能テスト」で調べてみれば、「老人性うつ」状態ではなくて、或いは「不活発病」ではなくて、「アルツハイマー型認知症」の最初の段階である「小ボケ」の段階であることが容易に確認できるのです。
○ 夫(妻)が「アルツハイマー型認知症」を発病して、末期の段階である「大ボケ」の段階にまで進み、その夫(妻)を、自分一人で介護し、「介護に追われるだけ」の毎日:
「前頭葉」は、自分の置かれている状況を判断し、その状況に沿った「テーマ」を考え付き、「テーマ」の実行内容や程度や態様をシミュレーションした上で、最終的な内容を決定し、左脳や右脳や運動の脳に指令を出す司令塔の働きをしているのです。「重度認知症」の段階の症状が出ているということは、その人の「前頭葉」は殆ど機能していないレベルにあるのです。「大ボケ」の症状が出てくるようになると、脳の機能を元の正常なレベルに戻すことはもとより、「小ボケ」のレベルに戻すことも、「中ボケ」のレベルにもどすことさえも、できなくなるのです。「大ボケ」のレベルの枠の中で、更に重い症状を出すようになっていくだけなのです。この場合の重要な点は、(脳の働きがもたない一方で身体がもつことがその特徴である)「アルツハイマー型認知症」の末期の段階、私たちの区分で言う「重度認知症」(大ボケ)の段階の症状を発現しているということは、言い換えると、脳の機能の更なる衰えが同時に進行しているということでもあるのです。「大ボケ」の段階の枠組みの中で、症状の更なる重症化が進んでいくことになるのです。「アルツハイマー型認知症」というタイプの認知種は、身体がもつのに肝心の脳がもたないのが特徴なのです。「前頭葉」だけでなくて「左脳も右脳も運動の脳」の機能も、次第に働かなくなる状態に向かって、同時進行的に衰えていくことになるのです。
特に注意が必要なのは、介護役の配偶者の方が、「アルツハイマー型認知症」を発病することになるケースが極めて多いということなのです(「認認介護」)。「中ボケ」レベル或いは「大ボケ」レベルの夫(妻)を抱えて介護している本人自身が「小ボケ」に入っていく(「アルツハイマー型認知症」を発病する)ことがとても多いのです。自身が趣味や遊びの集いに参加することもできず、人付き合いも疎遠になっていく中で、症状が更に重い方向に向かって進行していくだけの「大ボケ」の段階にある夫(妻)の、「介護に追われる」だけの毎日、趣味なく、交遊なく、運動もせず、目標となるものもない、ナイナイ尽くしの「単調な生活」が継続していると、出番が極端に減った「前頭葉」が居眠りし始め、老化を加速させていき、介護している本人自身が「アルツハイマー型認知症」を発病することになる(「小ボケ」の段階)のです。
○ 家族との関係が悪く、寂しい生活が継続すること
家族と一緒に暮らしていながら、生活時間のずれや不和で、家族との挨拶も会話もなく、毎日の食事も一人でするような「寂しい生活」のことです。或いは、家の隅に追いやられ、一人でテレビを見るだけのような暮らしでは、寂しさだけでなく精神的な辛さや侘しさが一層募ります。こんなことなら、はやくお迎えがきて欲しいと思うようになるのです。生きていく意欲さえも喪失していくのです。
○ 一人暮らしの生活
「一人暮らしだからこそ、ボケてなんかいられない」という気概を持っている人は、昼間は趣味や遊びで出かけて留守、家にいるときは、お友達がお茶のみや雑談に尋ねてきているような生活を送るものなのです。当然のことながら、こうした生活を継続している「一人暮らし」のお年寄りは、「アルツハイマー型認知症」の発病とは無縁なのです。
趣味も遊びも人付き合いも楽しめない状態で、昼も夜も一人で家に居て、お茶を飲んでは居眠りし、水戸黄門を見ているだけのボンヤリした「単調な暮らし」という生活は、「前頭葉」を居眠りさせ、「アルツハイマー型認知症」を発病することになるのです。簡単な足し算や引き算 、平仮名で書かれた文章の音読作業を日課として朝昼晩と一人寂しくやるだけの生活では、肝心の「前頭葉」が老化を加速させていくことになるのです。明日と言わず今日から、自分なりに楽しめる「テーマ」を求めて、お友達探し、趣味や遊びの集いの場探しの探検に出かけていきましょう。
※ 「第一の類型」と「第ニの類型」の同時発生
○ 東日本大震災、熊本地震の発生と発生後の生活状況:
東日本大震災は、世界にも例がない程の未曾有の大震災でした。被災した高齢者は誰でも、「生活上の出来事」としても「生活状況の変化」としても、共に言葉では言い表すこともできない程の衝撃を受けられたと思うのです。我が身だけでなくて、家族や兄弟や親類縁者を含む一族の思い出が詰まった地域全体が被災し、街全体が壊滅的な被害を受けたのです。家族や親族を失った人たちも多く、生活の基礎である家屋や店や勤め先や田畑や船や筏までも失った人も多く、景色も思い出も消失してしまったのです。その上、被災から5年が経過したというのに、復興は遅々として進んでいないのです。この先の生活自体が未だ見えてこないという状況に置かれているのです。5年という時の経過の中で、被災自体が風化してきて、支援も途切れてきて、日々の生活にさえ大きな不安を抱えている人たちも多い状況なのです。私たちは、「東日本大震災」の被災地の60歳を超える年齢の「高齢者」達に対する対応処置、「アルツハイマー型認知症」の発病を予防し及び早期診断による回復という処置を該当市町村で制度化する必要性を指摘し、問題提起してきました。津波の被害はなかったとはいえ、地震による土地や建物の被害は甚大で、精神的な面での喪失も極めて大きく、今回発生した「熊本地震」の被災地の60歳を超える年齢の「高齢者」に対しても同様の問題が危惧されるので、該当市町村に対して同様の対応処置の制度化の必要性を指摘し、問題提起しておきたいのです。
大地震の被災と復興措置が遅々として進まないという現実の中で、「前頭葉」の三本柱である「意欲や注意の集中力や注意の分配力」を発揮する機会が多い「テーマ」をどのようにして見つけろというのか、被災した「高齢者」に対して、求められるはずもないのです。とはいえ、この甚大な被災を「キッカケ」として、生き甲斐なく、趣味なく、交遊なく、運動もせず、目標となるものもないナイナイ尽くしの「単調な生活」が始まり、継続されていくと、出番が極端に少なくなった「前頭葉」が、廃用性の機能低下、加速度的で異常な機能低下を必ず起こしていってしまうことになるのです。
ナイナイ尽くしの「単調な生活」の継続が原因で発病する認知症、廃用性の生活習慣病が本質である「アルツハイマー型認知症」は、発病自体を予防することもできるし、本当の意味での早期の段階、私たちの区分で言う「軽度認知症」(小ボケ)の段階及び「中等度認知症」(中ボケ)の段階で見つければ、「脳のリハビリ」を施すことによって治すことができるのです。「小ボケ」の段階で見つければ、治すことが容易であり、「中ボケ」の段階で見つけても、治すことは未だ可能なのです。「大ボケ」の段階で見つけるのでは、遅すぎるのです。
認知症の専門家とされる人達の間で、「アルツハイマー型認知症」は治すことができないとされているのは、見つけている段階が遅すぎること、私たちの区分で言う末期の段階である「重度認知症」(大ボケ)の段階で見つけているからなのです。たまに、それよりも前の段階、「中ボケ」の段階で見つけることがあっても治せないのは、肝心の「脳のリハビリ」を施さないで居て、効きもしない「薬」を投与するだけだからなのです。治すことができない段階で見つけることに加えて、効きもしない薬を投与することに何の意味があるというのでしょうか。そもそも、「治療薬」を開発し販売している製薬会社自体が、「アルツハイマー型認知症」の発病のメカニズムについても、「アルツハイマー型認知症」の症状が重症化するメカニズムについても、更には、「アルツハイマー型認知症」の症状が治ることの意味についても、まったくの無知と言うしかないのです。医療機関は、そうした製薬会社の説明を疑うことなく、鵜呑みにしたままで、薬を投与し、大きな利益を稼いでいるのです。なんたる、不条理!
&「アルツハイマー型認知症」を発病することになるかならないか、それは「生活状況」の発生に対する「本人の受け止め方」次第という点は、発病の予防という視点からは、救いでもあるのです。例示されたような「キッカケ」となりそうな生活状況に遭遇した人達の全員が、「アルツハイマー型認知症」を発病することにはならないということなのです。
○ 両者を区分けるものとは
1.(「キッカケ」になった人)
人生の大きな出来ごとの発生や生活環境の大きな変化という「生活状況」の発生に遭遇して「大きな障害」と受け止め、心が折れて負けてしまい、その為に意欲をなくしてしまい、自分なりの生き甲斐や喜びが得られる従来維持してきた「生活習慣」を継続できなくなり、「目標」となるものがなくなって、「前頭葉」を使う場面が極端に減った「生活習慣」に変わってしまった人
2.(「キッカケ」にはならなかった人)
「大きな障害」と受け止めても、そのことに負けないで、そのため意欲を失わず、自分なりの生き甲斐や喜びが得られる従来維持してきた「生活習慣」を継続できるので/生活状況の変化に対応した新たな「生活習慣」の構築により、自分なりの生き甲斐や喜びが得られ、「目標」となるものがある生活ができるので、「前頭葉」を使う場面がそれなりにある「生活習慣」を従来通り継続できている人。この二つのグループに区分けされるのです(当の本人が第一ですが、周りの支援も重要なのです)。「アルツハイマー型認知症」を発病するお年寄りは、その「キッカケ」を契機にして、従来継続してきた「生活習慣」、その人なりの目標や生きがいや喜びがある「生活習慣」が維持できなくなり、「前頭葉」の出番が極端に少ないナイナイ尽くしの「単調な生活」が継続することになっていく、即ち、発病の「第二の要件」を充足する生活が始まることになるのです。これまでの説明で理解していただけていると思いますが、「アルツハイマー型認知症」の発病を回避するには、ナイナイ尽くしの「単調な生活の継続」という発病の「第二の要件」の充足を回避しなければならないのです。
発病の「第二の要」件の充足を回避するには、上述した事例に見るような「生活状況」が発生した時、その「生活状況」に本人が負けないことが必要不可欠となるのです。「アルツハイマー型認知症」の発病を左右する直接の原因は、脳の委縮でも、アミロイド・ベータやタウタンパクの蓄積でもないのです。その時遭遇した「生活状況」を「キッカケ」として、ナイナイ尽くしの「単調な生活」に入っていったことが、「アルツハイマー型認知症」を発病する原因となるのです。皆さんは、このことを深く心に留めておいて欲しいのです。
「キッカケ」との遭遇に負けてしまい、心が折れて、(「意欲」を掻き立てたり、「注意を集中」したり、或いは「注意を分配」したり)する機会となるべき従来維持してきた「テーマ」を維持できなくなった人/或いは、新たな「テーマ」を再構築できなかった人は、(「前頭葉」の「三本柱」の出番が極端に少ない「生活習慣」である)あのナイナイ尽くしの「単調な生活」に入っていくことになるのです。
「キッカケ」に遭遇して、心が折れそうになったら、このブログに書いてあったことを思い出して欲しいのです。ここで負けたら、「アルツハイマー型認知症」を発病することになるので、絶対に負けてはいけない、ナイナイ尽くしの「単調な生活」に陥ることだけは絶対に避けるんだと、頑張って欲しいのです。どんなことでも良いので、何かの「テーマ」を見つけ出して欲しいのです。そんな時、「速足の散歩」は不可欠の絶対的な「テーマ」なのです(ここを「クリック」A-7してください)。
○「キッカケ」となるかならないかは、本人の受け止め方次第なのです:
前回のブログでも「キッカケ」の類型をまとめてありますが、それらは、「第二の人生」を生きているお年寄り、発病の「第一の要件」を充足しているお年寄りであれば、誰にでも、何時でも起きてきそうなものばかりなのです。たまたま「キッカケ」となりそうな「生活状況」の発生に遭遇した時は、その状況に対して自分が取るべき脳の使い方としての「生活習慣」に十分注意して欲しいのです。ナイナイ尽くしの「単調な生活」が始まる「キッカケ」とならないよう、「前頭葉」の出番が或る程度は確保されている従来通りの「生活習慣」、自分なりの目標があって、自分なりに生き甲斐や喜びが時には得られる「生活習慣」の維持(或いは、再構築)の為に、是非とも頑張って欲しいのです。上述したように、第一義的には、本人の頑張り、踏ん張りが必要なのですが、家族からの支えも必要なことは言うまでもありません。
生き甲斐なく、趣味なく、交遊なく、運動もせず、目標となるものもない、「前頭葉」の出番が極端に少ない「生活習慣」、ナイナイ尽くしの「単調な生活」が継続すること(発病の「第二の要件」を充足すること)が、「前頭葉」が廃用性の異常で加速度的な機能低下を進行させていく唯一の原因となるのです。その結果、「前頭葉」の機能が「正常老化」の曲線から逸脱し、異常な機能レベルに突入していくことによって、「アルツハイマー型認知症」を発病することになるのです。その最初の段階が、私たちが定義する「軽度認知症」(小ボケ)の段階なのです。
&「キッカケ」に対する本人の受け止め方がポイント
同じような「生活状況の変化」(或いは、「生活上の出来事」)が発生しても、生活状況(或いは、出来事)の発生に対する個人一人一人の受け止め方が異なるので、「生活状況の変化(生活上の出来事)」発生後の「生活習慣」(日々の脳の使い方)は、それぞれに違うのです。或る人は、「生活状況の変化(生活上の出来事)」の発生が「キッカケ」となって、気持ちが落ち込み(心が折れてしまい)意欲をなくしていって、ナイナイ尽くしの「単調な生活」が始まるのに対し、或る人は「生活状況の変化(生活上の出来事)」(出来事)の発生があっても「キッカケ」とはならないで、(心が折れてしまわないで)意欲を取り戻し、何かの「テーマ」を自分なりに見つけ出して、日々の生活をそれなりに楽しんでいくことができるのです。
このことは、次の例示のように、具体的に考えると理解しやすいと思います。(我が国ではよく見かけるケースなのですが)「定年退職」で仕事を取り上げられてすることもなくなり、3年もたつと見る影もなく衰えボケてしまう人もいれば(この段階では、未だ「小ボケ」)、「定年退職」で自由な時間がいっぱいできたのをきっかけに、自分なりに趣味や遊びや人づきあいを楽しんで、生き生きと生活していく人もいるのです。或いは、世間でよく言われるように、「夫を亡くしたおばあさん」は半年もたつと楽しげに生活をエンジョイするようになることが多いのに対し、同じように「妻を亡くしたおじいさん」の多くは次第に元気をなくしていくのです。前者と後者とを区分けるキーポイントは、発生した「生活状況の変化(生活上の出来事)」を当の本人がどのように「受け止めたのか」にあるのです。「アルツハイマー型認知症」を発病することになるかならないか、それは「生活状況の変化(生活上の出来事)」の発生に対する「本人の受け止め方」次第ということになるのです。その結果、本人の心が折れてしまい、意欲を喪失してしまったかどうかがキーとなるのです。
「アルツハイマー型認知症」の発病を回避するには、ナイナイ尽くしの「単調な生活の継続」という「第二の要件」の充足を回避しなければならないのです。「第二の要件」の充足を回避するには、上述した事例に見るような「生活状況の変化(生活上の出来事)」が発生した時、その「生活状況の変化(生活上の出来事)」に本人自身が負けないことが必要不可欠となるのです。「アルツハイマー型認知症」の発病を左右する直接の原因は、アセチルコリンでも、アミロイドベータでも、タウタンパクでも、脳の委縮でもないのです。その時遭遇した「生活状況の変化(生活上の出来事)」を「キッカケ」に、ナイナイ尽くしの「単調な生活」に入っていったこと(及びその継続)が直接の原因となるのです。
第二の人生を送っているお年寄り(及びその家族)は、このことを深く心に留めておいて欲しいのです。「生活状況の変化(生活上の出来事)」の発生に遭遇した時は、そのことに負けて気持ちが落ち込み、心が折れてしまわないよう頑張って欲しいのです。その状況に対して自分が取るべき脳の使い方(「生活習慣」)に十分注意して欲しいのです。ナイナイ尽くしの「単調な生活」が始まる「キッカケ」とならないよう、是非とも頑張って欲しいのです。本人が頑張り、踏ん張ることが第一なのですが、家族(周囲)からの支えも必要不可欠なのです。
&「アルツハイマー型認知症」の発病及び重症化とその期間
「キッカケ」の発生を契機にして、ナイナイ尽くしの「単調な生活」が始まるのに0.5年、ナイナイ尽くしの「単調な生活」が日々継続することにより、廃用性の加速度的な機能低下によって「前頭葉」の機能が異常なレベルに低下するまでに0.5年、「小ボケ」の期間が3年、「中ボケ」の期間が2年、6年目からは「大ボケ」の段階が始まるというのが、私たちが集積してきた極めて多数の「脳機能データ」に基づく「大原則」なのです。だからこそ、「東日本大震災」を被災した「高齢者」達だけでなく、「熊本地震」を被災した「高齢者」達の今後の生活状況を、私たちはとても心配しているのです。
「東日本大震災」の場合も、「熊本地震」の場合も、「キッカケ」となる内容自体が余りに厳しく過酷であることから、ナイナイ尽くしの「単調な生活」に陥っていくお年寄り達の数と割合とが、言い換えると「アルツハイマー型認知症」を発病するお年寄り達の数と割合とが、他の事由の「キッカケ」の場合とは異なり、極めて多数で且つ、極めて高い割合で起きてくることになると、私たちは考えている(危惧している)のです。
& 「アルツハイマー型認知症」の予防と地域予防活動の展開
○ 発病自体の予防を明確な目的とした地域予防活動の制度化を
発病の予防が出来ないし、治すことが出来ないとされて、対策が打たれず放置されているために、介護の為の費用(診察、投薬、介護)の費用が、年間で15兆円を超えるところまできていることをご存知でしょうか。
「アルツハイマー型認知症」の本質は、廃用症候群に属する単なる生活習慣病なのです。その確立すべき「生活習慣」とは、「身体の健康」という視点から常に語られる「食生活」ではなくて、脳の使い方としての「生活習慣」という考え方、視点が重要となるのです。したがって、「アルツハイマー型認知症」の発病を予防する方法とは、「前頭葉」を含む脳全体が活性化するような「生活習慣」の確立とその維持、言い換えると、「右脳」の関与が中核となる「趣味」や「遊び」や「人付き合い」、或いは、「運動の脳」の関与が中核となる「運動」、更には「社会活動」等を「テーマ」にして、達成する過程で/或いは達成したその結果により、自分なりの生き甲斐や喜びが得られるようなテーマを日々の生活に取り入れることが必要不可欠となるのです。
こうした活動の維持については、医療行為は関係しないこと及び医療費の売り上げが立たないこと等の理由から、医療機関は無関心なのです。その意味で、「アルツハイマー型認知症」の発病の予防を目的とした「地域予防活動」というテーマは、市町村の保健師さんが活動の中核となり、且つ実施地域のボランティアの参画が極めて重要な条件となるのです。市町村の保健師さんと地域のボランティア組織とが積極的に共同して展開することが、活動を活性化させ、成功させる上で不可欠の条件となるのです。
○「早期診断」による「回復」の制度化を
「アルツハイマー型認知症」の予防には、私たちが規定する発病の「第二の要件」を充足させないこと、言い換えると、ナイナイ尽くしの「単調な生活」に陥らないようにさせることが必要となります。
そうはいっても、気が付いてみると、ナイナイ尽くしの「単調な生活」が継続する生活週間に陥っていて、「アルツハイマー型認知症」を発病する人はみなさんが想像するよりも多いのです。私たちが開発した「二段階方式」を導入して、「アルツハイマー型認知症」の発病の予防を目的とした「地域予防活動」を展開している市町村にあっても、「アルツハイマー型認知症」を発病するお年寄りの数は、導入していない市町村に比べてその発病の年齢別の割合が顕著に少ないとはいえ、発病するお年寄りの発生という事実も或る程度は避けられないのです。「地域予防活動」に基づく、認知症の予防教室/脳イキイキ教室に通いながら「前頭葉」を含む脳全体の活性化を図るべく自分なりの「テーマ」を実践できているお年寄りはいいのですが、途中で頓挫したり、「教室」に参加しないお年寄りも存在し、ナイナイ尽くしの「単調な生活」に陥っていく人達が少なからずいるのです。そうした人達を「二段階方式」の活用により早期の段階で見つけて、「脳のリハビリ」(脳の使い方としての「生活習慣」の改善)を指導することにより治すことができるのです。そのことを制度化すべきだと私たちは考えるのです。
注)本著作物(Bー60に記載され表現された内容)に係る著作権は、 (有)エイジングライフ研究所に帰属しています。