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「しょうざん 光悦芸術村」に行ったら、もう一箇所訪れてみたいところがあります。光悦寺です。ここから5分か10分くらい歩けばたどり着けるはずです。マルチアーティスト本阿弥光悦ゆかりの寺。この地で芸術村を開き、アーティストを集めたその屋敷跡が、後に光悦寺となっているのです。「しょうざん 光悦芸術村」というネーミングもここから取られているのでしょう。高校時代に日本史の勉強をちゃんとやっていたら、江戸時代の琳派のひとりとして記憶に残っているはずなのですが、何十年も昔のこと、思い出せません。ちゃんと勉強していたのでしょうかね。
もう亡くなった私の叔父に何でもよく知っている人がいて、私が大学生くらいの時でしょうか、彼が「光悦寺」とか「本阿弥光悦」という単語を教えてくれたように思います。話はすっかり忘れてしまったのですが、おそらく庭がすばらしいとか、静かな寺だとかそんな話だったと思うのです。
「しょうざん」まで来たら、光悦寺に行かなきゃね。
千本通に戻って、北へ歩いていきます。趣ある醤油屋さんの前を通ってなだらかな上り坂を歩いていきます。今でこそ、人家もたくさんあってにぎやかですが、光悦の時代は随分と山奥だったのではないでしょうか。なにしろ「御土居(おどい)」の外側、洛外ですからね。鷹峯の交差点に近づくと観光客らしき姿が多くなります。観光シーズンですから警備員さんもいます。光悦寺と、近くにある源光庵、常照寺などを訪れる人が多いのでしょう。その割に、「しょうざん」の静かさはどうでしょう。やはり知名度の差でしょうか。
鷹峯の交差点を案内にしたがって左折、鷹峯小学校を越えたら光悦寺の入り口です。
まぁ人の多いこと多いこと。「しょうざん」に少し分けてあげたら?と思うほどです。参道の紅葉がすばらしいです。見事なというより控えめな楓が足元の石畳?とよく合っていて風情があります。誰しも考えることは同じで、ここで写真を撮ろうとするものですから、ただでさえ一方通行にしてほしいくらいの細い参道は来る人帰る人、写真を撮るために待っているひとでごった返しの状態です。
拝観料300円也を納めて入ります。山の斜面に敷地があって、山門から下っていく感じです。寺というよりも茶室がたくさんある庭園といった様子です。残念なことに楓の類はすでに見頃を過ぎている様子であること。それから空が曇っているせいで、景色がもうひとつどんよりしていること。写真を撮るには苦しい状況です。三脚使用禁止の立て札があちらこちらにありますが、幸か不幸か三脚も不要に思います(もっとも私は三脚を持ち歩きません)。
本阿弥光悦の墓の前で若い女性が二人、読み方で悩んでいます。「もと…あみ?」。横で聞いていて胸のうちで笑ってしまいましたが、「御土居」が読めない私と大差ありませんね。
斜面を下りると、さきほどの「しょうざん」の建物の屋根が(ボウリング場の建物でしょうか)、近くに見えます。せいぜい数百mくらいの距離です。「しょうざん」では紅葉が見頃で、こちら光悦寺ではピークを過ぎているというのは、谷の底部にある「しょうざん」のほうが、山肌にある光悦寺よりも寒気の影響を受けにくいからかもしれないと考えました。遠くに京都の町が見えます。
光悦垣(と呼ばれる垣根があります)の横で腰を下ろしていたら、また時雨に見舞われました。見上げると一面に雲。ゆっくりと北から流れていますが、少々待っても太陽光は期待できそうにありません。そろそろ帰ろうかと思っていたら、「しょうざん」で会ったおじさんと再会しました。鉄道写真家の南正時氏に少し似た感じのおじさんは、ブログをやっているそうで、そのために撮影に京都に来たのだと言っていました。鷹峯交差点経由ではなく、紙屋川沿いの鏡石通からやってきたら、とんでもない坂道を登ることになったと息を切らしていました。
帰路は、おじさんのいう鏡石通を下って帰りました。確かに、自動車があえぎながら登ってくる急坂がありました。その坂を下り切ったら紙屋川に沿って「しょうざん」まではすぐでした。
ここまで下りてきて、おじさんのブログタイトルとか、アドレスを聞くのを忘れていたことに、気づいたのでした。
(つづく)
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