高山で寒い朝を迎えたので防寒対策をして眠りましたが、今朝は少々暑かった模様です。靴下を脱いでいましたし、首に巻いておいたフリースも取っていました。まだ暗いのでよくはわかりませんが、たぶん雲に覆われているのでしょう。
顔を洗って朝ごはんのパンを食べている間に、辺りが見えるようになってきましたが、雨がポツポツと降り始めました。今朝は高ボッチ高原に挑戦しようと思っていましたが残念です。駐車場に止まっている同志のクルマを拝見していたら、なんとトラックの荷台にテントを張っている人がいました。これには感心。道の駅ではよく「テント禁止」なんて書いてありますが、自分のクルマの上なんですから公園側も文句の言いようはないでしょうね。トラックキャンパーとは別にバイクの兄ぃが一人用のテントを駐車スペースに張っていました。雨の中テントから出られるのかな?どうするんだろうと思っていたら、薄暗闇の中レインウェア姿でテントを片付け、早々と旅立っていきました。
さて、早朝から高ボッチ高原行がキャンセルになってしまった私は行きどころがありません。「ナイヤガラ」を買って帰りたいのでお店が開くまでは塩尻辺りで時間つぶしをしなければなりません。喫茶店で珈琲でも飲んでればいいのでしょうが、一人旅にはそれも退屈。
当てもなく塩尻市内をぐるぐる走っていてたどり着いたのが信州スカイパーク。信州まつもと空港を取り囲むように、体育館だのスポーツ競技場だのが作ってあるのですね。芝に覆われた巨大なエリア。たぶん、市街地と空港の緩衝地帯として作られているのでしょう。そのうちの南管理棟のところにクルマを停めて少し歩いてみました。飛行機でも見えるのかなと期待したのですが、この日飛行機の発着は合計6回のみ。この空港でお泊りしている機材もないようで、だだっ広い緑地の中に長い滑走路が一本あるだけ。一番早い到着が11:35に福岡からやってくる便。飛行機や空港に無縁な生活をしているとこんなもんかと思う出来事でした。空港というと一日中、飛行機がやってきたり飛び立ったり、たくさんの人々が行き来する風景を想像するわけですが、それは空港を知らない者の勝手な想像ですね。件のさだまさし『夢供養』の1曲目「最終案内」の歌詞では、空港の様子を「人ごみのロビー ざわめきの中で」と形容していますが、歌詞の通りにはいきません。どちらかというと日野正平の番組『こころ旅』のオープニングのような静けさです。
そろそろ開店かなと、昨年「ナイヤガラ」を買った販売所を覗いてみます。この季節に塩尻にやってきたのはこの葡萄が目当てだと言っても過言ではありません。お店のお姉さんに、「自宅で食べるヤツだから見栄えは良くなくていい」と4kg買いました。2600円でした。国道沿いの別のお店でりんごを「自宅で食べるヤツだから…」と同じことを言い、2kgを900円で買い込んでクルマに載せる。なんと豊かな心持ちになれることでしょう。
あとは帰るだけ。明日の出勤に備えて遅くまで遊ばないのが大人というもの。帰りのルートは伊那谷の一般道を走ってみたい。中央自動車道で谷の中腹を走ったことは何度もありますが、いわゆる下道を走ったことはほとんどなかったはず。8年前の秋に、伊北ICで降りて権兵衛トンネルを潜って木曽谷に向かったことがありますが、その程度、ほんの触り程度です。
それで折り目正しくというわけで、塩尻市高出交差点(国道153号の終点)から、善知鳥(うとう)峠を越えて辰野町に入ります。辰野はさだまさしの「風の篝火」の舞台だとずっと思ってきましたが、何しろ伊那路は中央自動車道で通り過ぎるだけでしたから、辰野の町を知りません。どんなところだろうと期待をしていたのですが、国道を走るだけでは雰囲気に触れることもできませんね。小野の駅を過ぎたあたりで古い家並みに少し出会えただけで、あとは特別な風景はありませんでした。辰野や塩尻というとで今でも覚えている「大八廻り」という言葉、これを教えてくれたのは、前述のKくんだったように思います。塩嶺トンネルの開通により、中央本線の優等列車が辰野駅を経由しなくなったのは1983年のことでしたから、私の修学旅行の時には、「8時ちょうどのあずさ2号」も、辰野駅を出発したあとは153号線沿いを松本方面に走っていたことになりますね。
左右の山が少しずつ開けて箕輪町に入り中央自動車道を潜ります。沿線にはそれなりの人口があるように見えて、国道もバイパスになったり郊外型の大型店舗があったり。勝手な話ですが、伊那路に期待してこの道を選んだ者としては少々退屈です。それに暴れ川とあだ名をつけられた天竜川もこの辺りは至って穏やかな景色。伊那市に入った辺りで、国道から逸れているらしいということに気づいて、天竜川の右岸に戻る。しかし、この辺り道の駅がまったく見当たりません。やはり、観光客やよそ者をアテにしていない町なんだろうか。
宮田村、駒ケ根市辺りでは国道は川から離れ、山の中腹を走っている景色になります。木曽山脈からの谷を跨ぐために大きな橋をかけて直線的にバイパスが作られています。こういう地形を田切地形というそうです。
私のような、あまり利口ではない者には教科書から知識を得ることは難しい。伊那谷の河岸段丘も高校時代「地理」できっと勉強したはずなのに、ほとんど覚えていません。現地に行って、触れて疑問に思ったことを調べてみてやっと、「へぇ、そうだったんだ。知らなかった」となります。現地に行くことって私のような者にとっては大事だなと思います。そしてこうして文字化してみることで、ぼんやりとした知識が形をもつようになります。ほとんど誰も見ていないであろう、こんな記事を書くことは私にとってはとても役立っているんだろうと思います。
駒ケ根市を越えたら、飯島町。新しいバイパスの横でやっとみつけた「道の駅田切の里」。2年前にできたというまだ新しい道の駅。「田切」という地名はきっと田切地形から生まれたんでしょう。昼ごはんに道の駅の中のそば処で、そばを食べました。飯島町は信州最大のそば種子の生産地だと書かれていました。それから農産物販売所で梨と栗とぶなしめじ、それに新そばを買い、ますます豊かな心持ちで道の駅を後にしたのでした。伊那でも葡萄は生産されているようでしたが、ナイアガラは見当たりませんでした。シャインマスカットはあるのにね。
帰宅してから地図を広げ数えてみました。塩尻市を出てから飯田市までの153号線沿いには道の駅が、この田切の里しかありません。それも新しくできる(完成していない)バイパス沿いに2年前にできたばかり。ところがこの西側の谷、中津川から塩尻に至る国道19号線沿いには8か所の道の駅があります。木曽山脈の左右でどうしてこんなに違いがあるのだろう。考えてみました。伊那谷には道の駅の文化が育つ前に、高速道が出来上がってしまったのではないかと。道の駅の正式登録は1993年が始まりだそうです。一方中央自動車道が東京方面とつながったのが1981年。「道の駅」という概念ができる12年前に伊那谷では遠距離移動を、153号ではなく中央道で行き来するようになってしまった。いまだに高速道がない木曽谷(=19号線)沿線には必要もあって、自治体ごとに道の駅を作った。そういうことではないかと考えました。
そして私の高校の修学旅行当時、中央道は名古屋方面から伊北までしか中央道はなかったこともわかりました。ということは、隊商のような大型バス8台のの修学旅行一行は、最終日中央道に乗るためには、少なくとも伊北までは伊那の一般道を走ったことになります。
中川村、松川町、高森町と過ぎ、飯田市まで到着。昼過ぎですが眠くてたまりません。しまむら上郷店の駐車場で休ませてもらいました。目が覚めたら15分ほど経過していました。すっきりした気分で出発。飯田山本ICから中央道に入りました。ほどなく恵那山トンネル。
恵那山トンネルには記憶があります。高校の修学旅行では、このトンネルがいかに長いかをバスガイドさんが説明をしてくれました。細かい中身は忘れてしまったので、ウィキペディアに尋ねるとこう書かれています。1975年8月に現在の下り線(延長8490m)が開通し、対面登校でした。第2期工事が完了して現在の上下別トンネルになるのが1985年3月。私の修学旅行は77年10月ですから対面通行の時代ということになります。この時代の制限速度は40km/hだったそうで、小学校時代の算数の知識で計算をしてみると、トンネルを通過するのに12.7分かかっていることになります。実際にはもう少し早く暗闇を出たものと思いますが、それでも当時の変な高校生には十分すぎる長大トンネルでした。
帰宅した私は、新聞部(高校の部活動です)から修学旅行の記事を依頼されており、書いた記事の最後に恵那山トンネルの通過時間を原稿の中に記した記憶があります。
高速道路では、適当なクルマを一台見つけて、そのクルマに着いていくと運転がラクだと教わりました。水色のAQUA(アクア)が私のペースに近いようなので、アクアの後ろでオートクルーズコントロールをセット。先達は走行車線を無理ない速度で走りながら、時折遅いクルマを追い越してまた走行車線に戻ります。私も同じように追従します。気分は、Hi-Fi Setの「水色のワゴン」。
今回の一番の目的であった、上高地を歩いた2日目はとてもよく晴れてくれました。初日は曇り、最終日は曇り一時雨ですからとてもラッキーな晴れの1日。次は60代にやってこよう。41年ぶりの安房峠も楽しい探索になりました。立石峠も初訪問、伊那路の国道153号も初めて走れました。おみやげの合計6kgの果物はとても心豊かになれる(梨と栗も追加で買ったし)。
やがて土岐ジャンクション。このまま中央道で東名高速に入るか、東海環状道、東海北陸道経由で名神高速に入るかは毎度考えるところ。今回は、アクアの行くほうに付いていくことにしました。アクアは東海環状道に入りました。1時間くらいは後ろを走っていますから、同士のような親近感を感じるアクアくんです。東海環状道でも「彼」の後ろを走りましたが、やがて別れもやってきます。可児御嵩IC で彼は下りて行ったのでした。
(おしまい)
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