寺地町から浜寺公園方面に電車に乗って、降りたのが石津駅。まったく初めて降りる駅なのですが、南海電鉄本線の諏訪ノ森駅に行くつもりでした。諏訪ノ森駅へ行くにはひとつ先の船尾駅で降りるほうが近かったと気づいたのは降車後のこと。まぁいいか。線路に沿って南へ歩けば、やがて諏訪ノ森駅の近くへ着くだろうと適当に歩いてみたのですが、この南へ行く道がやはり紀州街道でした。この街道が石津川を渡る橋の名が太陽橋。この橋の上から阪堺電車の鉄橋を眺めると風情あるように見えるのですが、電車が通るにはまだ時間がありそうなので、あきらめて歩きます。橋を渡ると「北畠顕家戦死の地」との案内があります。歴史に疎い私は、この北畠親房の長男だという北畠顕家さんという人のことを知りません。この辺りで石津の戦いと呼ばれる戦があって、北畠顕家さんが亡くなったのだと。
ここから500mほど歩いて右折したら諏訪ノ森駅がありました。
南海電鉄の浜寺公園駅舎は、辰野金吾の設計だと知っていましたが、諏訪ノ森駅舎も国の登録有形文化財に指定されているとどこかで聞いたので見てみたいと思っていたのです。初めて見る駅舎は、100歳を迎えた2019年に現役を終了しており、耐震のため両側から補強されていました。活用はされているようですが、私が訪ねた日は閉められていました。思っていたよりずっと小さい建物。もともとの場所から移動しているようで、線路の高架化工事が終わればまた駅前に戻ってくるそうです。
ここから一駅、阪堺電車が南海本線をオーバークロスしたら終点の浜寺公園です。やってきた電車は1001、通称「茶ちゃ」。堺トラムの連接車。たった一駅乗るには惜しい車両。快適!と思う間もなく終点に着きました。
浜寺公園へ来るのは3度目だと思います。やはり、駅名に公園がつくだけのことはあります。終点のこの駅が他の阪堺電車の駅と違うのは、西側に松林の公園が広がるという優雅さでしょう。駅と公園の間にある道路は、もと紀州街道らしい。ほんに、阪堺電車は紀州街道に沿って走っているのでした。住吉大社の前の阪堺電車が走っている道路も昔は紀州街道だったそうです。住宅が立て込んでいない優雅はしかし、この冬空には寒々しい。平日ですから訪れる人もほとんどいません。開園150周年だという幟が立てられていますが、誇るべき歴史が、人がいないことで却って寂しさを演出している気すらします。まっすぐ突き当りまで歩くと浜寺水路、水路の向こうは工場群。かつては、白砂青松が自慢だったはずですが、今はコンクリートの護岸。
浜寺水練学校の石碑がありました。平成18年に建てられた創立100周年記念碑。毎日新聞社が1906(明治39)年にこの水練学校を開設し、日本泳法の能島流の保存やシンクロナイズド・スイミング(今はアーティスティックスイミングと言いますね)の研鑽に努めてきたわけです。もともと、浜寺の海で行っていた水練が、堺泉北臨海工業地帯の開発で、陸に上がり?浜寺公園のプールを拠点にするようになったのが1963(昭和38)年と石碑に書かれています。
南海電車の浜寺公園駅に行ってみる。辰野金吾設計の駅舎は少し移動したように見えます。現在、南海本線の高架工事中で、2027年度末に高架化が完成したら駅のエントランスとして再び使われるそうですが、今は休止中。ちょうど地元の絵手紙の会だかのみなさんが展示場として使っていました。誘われて入ってみたら暖炉がありました。改札口に向かって右側の部屋ですが、これが昔は特等待合室だったそうですよ。少し離れて駅舎を眺めてみる。歴史ある建物ですから保存しようという機運はわかりますが、駅舎として使われていない「駅舎」はなんだか寂しい。それにこの駅舎も旧諏訪ノ森駅舎同様に耐震補強が素人にも見えるようになされています。私にはむしろ痛々しい気持ちになる国の登録有形文化財でした。
浜寺公園周辺の歴史を整理してみました。
- 1873(明治6)年に日本最初の都市公園の一つとして「浜寺公園」が誕生
初代内務卿であった大久保利通(歴史の教科書に出てきた人が登場した!)が、白砂青松の景勝地であった高師浜の地を訪れた際に、開発により名松が伐採される有様を憂いて、政府に松林の保護と景観保全を訴えたのが公園開設の契機となったとのこと。 - 1888(明治21)年 海浜院ができる。(共同別荘か、サナトリウムのようなものらしい)
この海浜院という語は鎌倉でも出会ったことがある。潮湯治といって海水浴の医療効果がうたわれ、1884(明治17)年、海水浴場開きが行われ、3年後には潮湯治保養所海浜院というサナトリウムができた。このころ全国的に海水浴がレジャーとして定着する。 - 1897(明治30)年 南海鉄道(現・南海電鉄)の浜寺駅開業。私鉄で最古の駅舎として2016(平成28)年まで使用されていた。
- 1905(明治38)年 浜寺海水浴場開設
海水浴場とともに開設された「海泳練習所」は、現在の「浜寺水練学校」の前身 - 1907(明治40)年 辰巳金吾設計の浜寺公園駅舎完成
- 1912(明治45)年 阪堺電気軌道が恵美須町-浜寺駅前間開通
- 1918(大正7)年 浜寺土地会社設立。(大阪市内の裕福な商人を対象とした別荘風郊外住宅の建築、分譲)空地法の導入。(敷地面積の十分の六を空地にすることが求められ、また、一区画を150坪以上とすることが定められる)
公園周辺の泉北郡浜寺町一帯は大正から昭和初期にかけて別荘地となり、とりわけ夏期の海水浴場は大変な賑わいを見せた。
戸田清子さんの『阪神間モダニズムの形成と地域文化の創造』によれば、「阪神間モダニズム」とは、明治後期から大正期を経て、太平洋戦争直前の昭和15 年頃までの期間において、阪神間の人々のライフスタイルを形成し、地域の発展に影響を与えてきた、あるひとつの文化的傾向
と定義されています。阪神間にモダニズムが生まれた背景として三本の鉄道(現JR、阪神、阪急)の発達によって行き来がしやすくなったことも大きなキーを握っていると思われますが、浜寺公園周辺の発達を見ていると、阪神間モダニズムと共通するものを感じます。大阪市内から吹き出たエネルギーの片方は西へ向かい阪神間で花開き、片方は南へ向かい浜寺で花開いた。また、明治後期から大正期において海水浴レジャーが一気に伸びることに鉄道の発達が関わっていることは福岡県でも愛知県でも同じような状況だったようです。
浜寺海水浴場は「東洋一の海水浴場」と呼ばれたそうです。東洋一?ん?。大浜公園の堺水水族館も、「東洋一の水族館」と呼ばれたのでしたね。「東洋一」って時代のキーワードだったのかもしれません。そして、東洋一の水族館が閉館になったのも浜寺公園の砂浜がなくなったのも1961(昭和36)年。堺市に大きな時代の波が、私の生まれた昭和36年にやってきたということでしょうか。
(つづく)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます