ぶろぐのおけいこ

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旧堺灯台と蘇鉄山  相棒は杖(3)

2024-02-28 18:35:43 | PiTaPaで歩く

 大和川駅から乗ったら、次は旧堺灯台へ行きましょう。阪堺電車にはお年寄りが多い。平日のことですから、学生さんや勤め人さんはこんな昼間に電車で移動しないんでしょうが、敬老電車というのは言い過ぎでしょうか。もっとも、私もそんなに場違いな年齢ではありません。気になるのは、お年寄りたちがみんな乗りしなに自分のパスケースを乗車リーダーにタッチしていること。阪堺電車はPiTaPa等交通系ICカードが利用できます。その際には乗車駅の記録が必要ですから、乗りしなにタッチする必要がある(降りるときは降車リーダーにタッチ)。一方現金で乗る場合は、乗りしなはフリー(均一運賃ですから)で、降りるときに230円を料金箱に投入する。ついでに私のようなてくてくきっぷは、降りしなに運転手さんに「てくてくきっぷ」を見せるだけ。ということは、お年寄りはみんな交通系ICカードを利用しているということか?
 綾之町駅のあたりで、大道筋と呼ばれる直線道路に入ります。立派なカメラを持ったおじさんが電車にレンズを向けています。ここで線路がカーブしているので、絵になりやすいのでしょうね。路面電車って全長が短い。また一両で走ることが多い。車両の顔と側面を1枚の写真にしづらいのです。だから、この場所が撮影ポイントになるのだろうと、またまた素人は考えたのでありました。その大道筋。紀州街道と書かれた石碑が車内から見えました。阪堺電車って紀州街道に沿うように走っているわけか。
 大きいんだか小さいんだかよくわからない駅、大小路(おおしょうじ)で降ります。言葉に慣れ親しんでいる地元の人は気にならないだろうけれど、素人は「大きいんかい?ちいさいんかい?」と気になります。ここから旧堺灯台を目指して歩きます。まずは南海の堺駅、駅を過ぎたらすぐ港になります。右手にマリーナがあって、豪華なクルーザーが白い体を並べています。その左手には龍女神像。港の左手は古い船が係留されていて、マリーナとは雰囲気が違った様子。地上を歩く者はぐるっと回り込むように遠回りをすることになります。ここまで来て、この足で大道筋から旧堺灯台まで歩くことの無謀さがやっと見えてきました。通常時ならどうということのない距離ですが、三本足で歩くにはちょっと距離が長い。でもここまで来たのですから戻るわけにもいきません。北風に襟を立てながら、景色に気を紛らせながら歩きます。運河歩道では曇天で陽も射さない寒い日でしたが、お年寄りたちが散歩をしています。

 阪神高速湾岸線をくぐれば灯台のはず。この灯台も以前に一度見に来たことがあります。その時は気づかなかったのですが、灯台の遥か後方に小さく見える山は須磨辺りの山のように思われます。旧堺灯台は四方を埋立地に囲まれてしまい、働く意味がなくなってしまいました。案内には1968年まで91年間、航路の安全のために働いていたと書かれています。説明の中で不思議だったのが、2125円の建築資金は「堺市民(当時は堺県民)の寄付と、堺県からの補助金でまかなわれた」という部分。灯台の建設にどうして、市民の寄付が先で行政は補助金なのかという疑問。理由は帰ってから理解できました。白い、ご隠居の灯台は奇麗でしたが、それより目を引いたのが、運河の北側の工場の壁画。

 14年前にはなかったはず。堺市のサイトにも「壁面アート 『さかい浪漫や』」という名前で紹介されています。2013年にできたそうですから10年選手です。ご隠居の灯台の話し相手になってくれているような雰囲気がします。でもこの壁画は誰に見せるために描いたのだろう。ストリートビューで試してみたら、阪神高速湾岸線の大浜入り口から北行きに乗るクルマからよく見えるような気がします。湾岸線のクルマからは見えにくいように想像できます。
 阪神高速の下をくぐって大浜公園へ。もともとは台場があった場所だそうですが、なにより1903年に大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会の第二会場となって以降、大阪のレジャースポットとして賑わった跡地が大浜公園らしい。では博覧会の第一会場はどこ?今の天王寺公園と新世界エリアだったそうです。そして「龍女神像」はこの内国勧業博覧会のシンボルだったものが復元されて旧堺港を見下ろしているのです。博覧会の観客は大浜まで歩いたのか?当時は(現在の)宿院駅から阪堺電車の支線があって、電車で大浜まで行けたんだって。私のように杖と二人三脚で歩いてくる必要がなかったそうな。

 蘇鉄山へは以前に「登山」したことがあります。今回は足に弱点の抱えながらの「登山」でしたが「遭難」することもなく下山できました。文字通り蘇鉄が何本も植えられていて、オレンジ色の実がたくさん落ちていました。案内板(以前に来た時もあった)の標高の数値が書き換えられています。6.97mとされていますが14年前の写真を確認すると6.84mでした。13cm高くなったことになります。能登では地震による隆起のニュースがありましたが、堺でも隆起しているのかもしれません。7mに満たないこの山にも蘇鉄山山岳会があって登山認定証を発行するそうです。大阪市の天保山には山岳救助隊があるという話でしたが、こちら蘇鉄山には救助隊の案内はありませんでした。
 蘇鉄山に限らず、この界隈では蘇鉄の木をよく見かける気がします。町中のお寺にも蘇鉄の木がありました。
 大道筋の寺地町駅まで戻って、阪堺電車に乗ります。
 あっ、忘れてた。旧堺灯台が民間の寄付をベースに作られた話。「関西の公共事業・土木遺産探訪」というサイトに載っていました。
「政府がアメリカなど5カ国と結んだ修好通商条約に基づいて(洋式灯台を)築造してきたが、旧堺灯台は建築資金の大半を市民からの寄付でまかない、残余を堺県からの補助によった。条約の締結に当たり、当初は堺が開港場の1つとして検討されていたが、仁徳天皇陵が近いという理由で神戸に変更された。これに危機感を抱いた市民らが、貿易の利便のために自ら港を修築し灯台を築いた」

このあたりのことを年表のように記すと次のようになりました。

  • 1879(明治12)年 大浜公園開園
  • 1903(明治36)年 大浜公園が「第五回内国勧業博覧会」の第二会場となる。博覧会閉幕後、水族館が堺水族館となり、東洋一の水族館といわれる
  • 1961(昭和36)年 堺水族館、集客数減少により閉鎖。
  • 1974(昭和49)年 「第五回内国勧業博覧会」のシンボル「龍女神像」は撤去される
  • 1999(平成11)年 「龍女神像」市制110周年記念事業により旧堺港に復元される

(つづく)


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