ある研究会出席のために長崎へやってきました。その会場が長崎市民会館であり、全体会場が文化ホール。
このホールは彼のフォークデュオ、「グレープ」が1976年4月5日に解散コンサートツアーの最終回を行ったところ。客席の壁はレンガ造り、緞帳は紫陽花模様。43年前には、カマキリのようなさだまさしがこの舞台に立っていました(後の知識です)。
研究会では興味深い講演を聴きました。「長崎と国際理解」について聴きごたえある内容でした。
和華蘭(日本と中国とヨーロッパ)が貿易というメリットで200年以上仲良くやってきたのが長崎である。交渉が成り立つためには互いが紳士でなければならない。通訳だって必要だ。互いの存在を認め合い、違いがあることを認め合えなければ貿易は成り立たない。例えば西洋建築と日本の伝統建築が出会い、新しいものを生み出していく。蘭学を学んだのは日本人であるが、それを教えた商館医、ケンペルは東洋医学を西洋に紹介した。有名なトーマス・グラバーは一方で倉場富三郎と名乗り、両方の名前を上手に使い分けた。それが許されるのが長崎の空気である。国際理解とか交流を高く看板に掲げるほど国際交流でなくなる。大切なのはフェイストゥフェイスで触れ合うことなのだ。
骨組みだけ摘み上げればこんな内容だったでしょうか。
中島川の石垣。左側の石に注目!
研究会を終え、中島川を渡って寺町通りを歩きます。天気は雨のち曇り。すでに気分は「紫陽花の詩」(グレープ)。観光地と生活の場が密接に絡み合っているのが長崎市中心部の魅力なのでしょうね。昼ご飯は昔ながらの喫茶店で食べました。煙草を吸わなくなって10年以上が経過しますが、カウンターに灰皿が置いてあり、これぞ喫茶店!と気持ちが落ち着きます。出がけに「また、お越しください」と言われたけれど、そんなに簡単にはやってこれません。
幣振坂の登り口。映画「解夏」にも登場したと書かれていた。
風頭山(かざがしらやま)のてっぺんを目指します。寺町通りを戻って、晧台寺(こうだいじ)横の坂道と階段をまっすぐまっすぐ上がっていけば、てっぺんに着くはず。気分は「坂のある町」(さだまさし)。この坂道を幣振坂(へいふりざか)と呼ぶそうです。幣振坂はすぐに石段になり、斜面をほぼまっすぐに上がる。長崎では石段も坂と呼ぶのだとどこかで聞きました。石段の左右は墓ハカはか。ちょうど石段を掃除している若いお坊さんらしき人に、「ここを上っていけば風頭山に行けますか」と聞いてみたら、顔を上げた彼は青い目の男性でした。
歴史上の人物が当然のように登場する
楠本家の墓があると書かれています。シーボルトが愛したというお滝さんと、二人の間にできたお稲(オランダお稲)さんの墓がこの石段沿いにあり、さらに、お稲に医学を教えた二宮敬作の顕彰碑もあります。観光地と歴史と人々の生活が絡み合っていると思いました。「坂のある町」という楽曲は、現代風の装いをしているけれど、シーボルトとお滝をモデルにして形を変えていくと出来上がった楽曲ではないかと、ふと思いました。石段の途中には何か所か「休石」なるものが置かれています。地元の人たちはここで一休みしながら、石段を上っていくわけですね。
「ここは幣振坂」と書かれた休石
ここに墓参りをする家族は大変です。足腰が弱ったらどうする?さらに考えるに、墓石屋はどうです?車で運び込むことができません。大変やんと、荒い息の間につぶやく。寺町通りと風頭山の標高差は125mほど(goo地図による)。岩井証夫さんにナレーションを頼むとすると、「標高差125mの急登を田中は一気に駆け上がる…」という感じでしょうか(「グレートトラバース3」のナレですよ)。それでも、幣振坂をスタートして約20分で風頭山(男山)に着きました。
斜面の墓越しに町が見下ろせる
風頭山(男山)。ここでハタ揚げをするらしい。
35年前に風頭山へ来たときとはかなり雰囲気が違っている気がします。坂本龍馬の像ができています。
展望台がこんなに大きくなかったし2階建てではなかった。もっとも、周辺の木々の成長により、展望台も高くしなければ展望にならないという現実も感じられますが。展望台の真下には紫陽花が群生していますが、当時も紫陽花があったかどうか、季節がちがうこともあり、わかりません。いや、風頭山付近はあのころこんなに整備されていなかったはず。あとになって、「龍馬伝」によって整備されたと教えてもらいました。
35年前の展望台はもっともっと小さかった、はず。
展望台で、傘を持って長靴をはいた私と同じくらいの世代の兄ぃに話しかけられました。彼は龍馬のファンのようで、幕末頃の長崎がいかに世界の情報を得ていたかを力を込めて話してくれます。そして、当時の長崎の人たちには平等にチャンスが与えられていたこと。むしろ、鎖国というかたちを取っていたがゆえに世界の情報も財力ももそしてコネクションもこの町に集約された。そういう土壌がなければ、いかに龍馬といえど国を動かすことができなかった云々。兄ぃのレクチャーを拝聴することおよそ一時間。研究会の講演と長靴の兄ぃのレク。今日は長崎の勉強がよくできた日です。
上野彦馬は日本の写真家の元祖のような人だということは知っていましたが、それが長崎の人だとは知りませんでした。先の兄ぃの話で考えれば、日本の先端をゆく長崎ゆえに、写真という技術が入り込み進化していったのでしょう。龍馬像から少し下りたところに上野の墓があります。
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