「小中学校の道徳の時間はこれまで教科外の活動という位置付けでしたが、文部科学省 は今年3月、学校教育法の施行規則を改正し、道徳を「特別の教科」に“格上げ”しま した。」(ネットニュースyomiuriによる。)
人間の生き方の原理ともなる道徳は、「特別」であるか否かを問わず、「教科」なのかどうかが問われなくてはならない。
この問題を考える際に想起されるのは、電車のシルバーシートである。また、「同和教育」「解放教育」といわれる指導の場の設定である。
従来の教科は、それぞれに根底に独自の成果を積み上げてきた、他とは異なる独自の内容と方法があり、独立して指導する必要があり、その効果も期待できる性格のものであった。
ところが、「道徳」なるものは、すべての人間の生き方の根本に位置する生活原理であり、人間の行動原理であって、既設の教科に並べて配置されてよいものではない。そのことを気にして「特別の」と称したのであろうが、「特別」であろうとなかろうと、「教科」として、他の教科に並べるべきものではない.構造的にいうなら、すべての教科の根底に位置づけられるべきものである。授業の担当者は、学級担任のようであるが、これも便宜的であり、その場限りである。授業担当は、すべての教科の担当教員とすべきものであり、であるなら、すべての教科の根底に、人間としてのあるべき道を教え諭す原理として、教科を超えた、あるいはすべての教科に共通する人間の生き方の原理としての「道徳」がなくてはならないであろう。
国語教育に関わる問題としては、かつて、同和教育、人権教育との接点に位置する文学の教育をめぐって、様々な論議があった。私としては、同和教育の専門書に見た「まともな文学教育が行われて入れば、同和教育は不要」という、意表をつく言葉であった。しかし、冷静に考えれば、文学とは、人間の生き方を問う芸術であり、その教育は人間以下に生きるべきかを問い、人間の性を問題にし、人間の抱える問題を突き詰めて考える場である。このような考えは、作文・綴り方にも、論理的文章、特に論説・評論にも、話すこと・聴くことにも共通すると言えないか。そのとおりだということになれば、社会科や理科にも言えることではないのか。
先日、美術の専門家と論文作成について、かなりの時間を費やして話し合った。研究対象は、ベン・シャーンという、通常社会はの画家と受け止められている人物であり、かねてより私の好きな人物であった。絵画表現を通して、人間の根本的権利とその侵害、えん罪事件の真相を画題にしてき人間としての生き方に触れると、おざなりな、シルバーシート・道徳では実現不可能な教育力が存在することを実感する。彼が美術の教育を担当するなら、シルバーシート・道徳は不要であろうと思う。
昨日、M新聞の投書に、英語が小学校で、教科化されて、総合的な学習が圧迫されて困るという趣旨の文章が掲載されていた。これも、いくつかの問題を含んだ投書である。
そもそも、「英語」を小学校で、教科として指導する意味は何か。英語に堪能な人の多くが反対表明をしていることを重く受け止めよう。
世界的に見ても優れた母国語である日本語を持つわが民族が、かくも英語という外国語にあこがれる理由はなんであろうか。かつて文部大臣の森某が、アメリカの言語学者に、日本語を廃して、英語にしようと持ちかけ、その考えの間違いを指摘されたという事実を想起しておこう。現在の大臣、国会議員の知的レベルで、国語や外国語の問題を云々(でんでんではない。)する資格はない。グローバル社会に対応するために、英語の力の胃k性をというなら、英語を話す(易しい英語を話すと評判の)トランプ氏が、グローバルな考えを持つ人間であるのかどうか、そもそもグローバルという思想が人間にとって、善なるものかどうかを考えて見たい。
そもそも、総合的な学習というものの存在が、道徳に似て、人間の生活の基本原理であって、特定の内容と方法を持つ、既存の教科と横並びになるものではない。この混乱が現場の教員を悩ませた.英語と総合的な学習の関係に関わる論議と投書は、そもそもおかしいといわざるを得ない。つまり、両方ともおかしいのである。
今回の記事の要旨は、人間のあるべき姿は、すべての教員が、学校という教育の場の全体を通して指導しましょうということであり、日本語という優れた言語を尊重し、日本語を使用する人間てとしての誇りと責任を持つ人間の育成に力を尽くしましょうということであり、教科と教科を超えるものとの関係を冷静に考えましょうということである。