かつて、「国語教育クリニック」というブログを開設しておりました。もう閉じた訳ではありませんが、長い間更新しないでいます。
国語教育、言葉の教育に関する内容は、できるだけ統合しようと思います.今回は、クリニックからの記事を一つ、ここに転載します。
2014/6/8の日付になっていました。記憶にありません。
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梅雨の晴れ間と思って、アウル・バドゥラ=スコダのピアノ・リサイタルに行ってきました。帰途は,滝のような雨に打たれることになりました。
かつて、このブログに、アンコールの是非について,論じてもらうような課題を出しましたが、今日は、これに関連することを書き込みます。
スコダは、1927年、ウィーン生まれですので、87歳ということになります。大変な経歴の持ち主ですが、日本では、さほど有名ではないよう
です。(私が知らなかっただけかもしれません。)
今回が、最後の来日ということで、The Last Concertということになっています。
演奏は、ミス・タッチも多く、完成しきった姿とは言い切れぬものがありましたが、ハイドン作の二曲は、すばらしいできだったように思いました。
そしておきまりのアンコール。今回は,最後のコンサート、演奏者が超高齢者ということで、大らかに対応できましたが、やはり、二度、三度のお
ねだりに、気の毒になりました。アンコールとは、その優れた技量をもっと発揮してみせて下さいというおねだり的なものと、なかなかうまいじゃない、
他の曲もやってみてよという、やや聴衆優位のものと、二つの場合があるように感じましたが、今日は、お疲れ様、今回が最後だから、もう少しだけ
あなたの好きな曲を聴かせておいて下さいというレベルのもので、スコダ自身も楽しんでいるようでした。最後に演奏した、シュトラウスのオルゴー
ル風の曲は、ウィットが効いていて、爽やかな終演となりました。ご苦労様コンサートは、いつもと勝手が違いました。
ところで、音楽家は、年齢を重ねると「大家」になり、存在自体が重くなりますが、教育に従事している場合はどうでしょうか。
まれに,80歳を超えて、なお、リーダー・シップを発揮している人も居ます。大家であるということを前提に、教祖のように祭り上げる風習には
大いに抵抗を感じますが、芸術家の場合のように、風格が出てきて、無言の指導力、感化力を持つのであれば言うことはありません。しかし、こうい
うことは,稀です。スポーツの場合と同様に高齢の大家がもてはやされることは、ごくごく稀であり、それでいいと思います。
しばらく前から、教育現場にあって、若い者が年上の者のいうことを真面目に聞いてくれないという不満を耳にするようになりました。一方で、
若い人は、年長者から、あまり学ぶことがないと思っていることも知りました。教育の世界は,本来そういうものかもしれません。若い人の感性が
硬直化した考え方を打破して、創造的で、有効な教育の方法や内容を生み出すことないわけではないでしょう。また、単に年齢を重ね,経験がある
というだけで貴いとは言えないのも事実です。
こんなことを考えながら、教育の現場にあって、スコダのようであるためにはどうすればよいのかを思案しました。
おそらく,スコダは、欠かすことなく修練を重ねて,今日、今の瞬間を迎えているはずです。年齢による衰えとの戦いでもあったでしょう。それ
が無言の教訓をもたらしているのでしょう。さいわいに、スポーツのように,体力がすべてという世界ではなかったのです。教育も、体力がすべて
とは言えません。この世界で、若い人たちに遅れをとることなく,エネルギッシュに、かつ継続的に、教育の理念、教育内容、教育方法等の課題に
取り組み、前に進み続けることは、やはり、無言の指導力を発揮することになるのではないでしょうか。私などは、もうくたびれていますが、せめて、
定年前までは、専門家として成長し続ける存在であってほしいと思いました。
スコダのようには、なれないという結論に達しましたが,スコダの姿勢を理想とすることはできます。体力の衰えに敗北するまでは、スコダで
いたいと思います。もっともスコダは若いときから、人並み外れた能力の持ち主であったということですので、努力の人とは言えませんが、私た
ちは,「努力にまさる天才なし」という諺をたよりに、ほそぼそと修練し続けましょう。
87歳のスコダが演奏して、なかなか大変だったソナタの作曲をしたモーツァルトは、35歳10ヶ月で亡くなっています。モーツァルトの生き方
は、私たちの人生の指針にならないということがよく分かります。今回は、そこに深入りはしないでおきます。
国語教育、言葉の教育に関する内容は、できるだけ統合しようと思います.今回は、クリニックからの記事を一つ、ここに転載します。
2014/6/8の日付になっていました。記憶にありません。
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梅雨の晴れ間と思って、アウル・バドゥラ=スコダのピアノ・リサイタルに行ってきました。帰途は,滝のような雨に打たれることになりました。
かつて、このブログに、アンコールの是非について,論じてもらうような課題を出しましたが、今日は、これに関連することを書き込みます。
スコダは、1927年、ウィーン生まれですので、87歳ということになります。大変な経歴の持ち主ですが、日本では、さほど有名ではないよう
です。(私が知らなかっただけかもしれません。)
今回が、最後の来日ということで、The Last Concertということになっています。
演奏は、ミス・タッチも多く、完成しきった姿とは言い切れぬものがありましたが、ハイドン作の二曲は、すばらしいできだったように思いました。
そしておきまりのアンコール。今回は,最後のコンサート、演奏者が超高齢者ということで、大らかに対応できましたが、やはり、二度、三度のお
ねだりに、気の毒になりました。アンコールとは、その優れた技量をもっと発揮してみせて下さいというおねだり的なものと、なかなかうまいじゃない、
他の曲もやってみてよという、やや聴衆優位のものと、二つの場合があるように感じましたが、今日は、お疲れ様、今回が最後だから、もう少しだけ
あなたの好きな曲を聴かせておいて下さいというレベルのもので、スコダ自身も楽しんでいるようでした。最後に演奏した、シュトラウスのオルゴー
ル風の曲は、ウィットが効いていて、爽やかな終演となりました。ご苦労様コンサートは、いつもと勝手が違いました。
ところで、音楽家は、年齢を重ねると「大家」になり、存在自体が重くなりますが、教育に従事している場合はどうでしょうか。
まれに,80歳を超えて、なお、リーダー・シップを発揮している人も居ます。大家であるということを前提に、教祖のように祭り上げる風習には
大いに抵抗を感じますが、芸術家の場合のように、風格が出てきて、無言の指導力、感化力を持つのであれば言うことはありません。しかし、こうい
うことは,稀です。スポーツの場合と同様に高齢の大家がもてはやされることは、ごくごく稀であり、それでいいと思います。
しばらく前から、教育現場にあって、若い者が年上の者のいうことを真面目に聞いてくれないという不満を耳にするようになりました。一方で、
若い人は、年長者から、あまり学ぶことがないと思っていることも知りました。教育の世界は,本来そういうものかもしれません。若い人の感性が
硬直化した考え方を打破して、創造的で、有効な教育の方法や内容を生み出すことないわけではないでしょう。また、単に年齢を重ね,経験がある
というだけで貴いとは言えないのも事実です。
こんなことを考えながら、教育の現場にあって、スコダのようであるためにはどうすればよいのかを思案しました。
おそらく,スコダは、欠かすことなく修練を重ねて,今日、今の瞬間を迎えているはずです。年齢による衰えとの戦いでもあったでしょう。それ
が無言の教訓をもたらしているのでしょう。さいわいに、スポーツのように,体力がすべてという世界ではなかったのです。教育も、体力がすべて
とは言えません。この世界で、若い人たちに遅れをとることなく,エネルギッシュに、かつ継続的に、教育の理念、教育内容、教育方法等の課題に
取り組み、前に進み続けることは、やはり、無言の指導力を発揮することになるのではないでしょうか。私などは、もうくたびれていますが、せめて、
定年前までは、専門家として成長し続ける存在であってほしいと思いました。
スコダのようには、なれないという結論に達しましたが,スコダの姿勢を理想とすることはできます。体力の衰えに敗北するまでは、スコダで
いたいと思います。もっともスコダは若いときから、人並み外れた能力の持ち主であったということですので、努力の人とは言えませんが、私た
ちは,「努力にまさる天才なし」という諺をたよりに、ほそぼそと修練し続けましょう。
87歳のスコダが演奏して、なかなか大変だったソナタの作曲をしたモーツァルトは、35歳10ヶ月で亡くなっています。モーツァルトの生き方
は、私たちの人生の指針にならないということがよく分かります。今回は、そこに深入りはしないでおきます。