(菖蒲のつぼみに止まったトンボ)
言葉と言葉を使用する主体との関係を問い直す事例が、また発生した。自民党議員(二期目)の豊田某が、秘書である年長の男性に対して、聴くに堪えぬ悪口雑言を吐いたあげくに(吐きながら)暴行をしていた。しかも秘書は運転中であった。一部始終は録音されており、秘書は、告訴するようである。
同女史は、東大を卒業し、中央官庁に勤めながら、ハーバード大学を修了したそうで、いわゆる「超エリート」であると、ワイドショウの司会者は、紹介していた。同席していた女性弁護士は、自らも東大出身であることを意識、意図していたかどうか、「超エリートではなく、準エリート程度」と解説したというから、「エリート」という概念のうちには含めているようで、後味が悪い。
東大、ハーバード大という、知的面での教育においては、恵まれた道を歩みながら、いったい、人間としての教育は、一切なされなかったのか、あるいは根本的に間違った育てられ方をしたのか、そちらの方に関心がある。受験学力、IQ重視そのものは、あながち否定されるべきものではあるまいが、学力の行使に際しては、行使すべき人間のありようが問題になる。問題になるというよりも、人間のありようによって、身につけた能力は、生きも死にもするのである。悪口雑言は、その言葉の品位のなさ、暴力性以上に、それを口にする人間の品性を貶めるものであり、人間としてのエリートなどではなく、最底辺以下の存在である。いったい、自分を何様と思って生きてきたのであろうか。だれもそれを指摘し、諫めるということはなかったのだろうか。人間としての過去のお粗末さを思うとき、将来も閉ざされてしかるべき存在である。
言葉は、ニュートラルな存在である。どのような人間の口からも発することが可能である。と同時に、言葉は人間のありようの証明書であり、また人間性向上の栄養源でもある。人を傷つけることができるとともに、人を励まし、自分を鍛え育てる手段ともなる。過程や学校における言葉の教育を考え直すための「反面教師」として、今回の暴言、暴行議員の事例をとらえたい。
それにしても、自民党の二回生議員に問題が続発するのはなぜであろう。立候補者の多くが当選してしまったことが原因の一つであるようだが、そういう人間を候補に挙げること自体が無責任である。離党させて済む問題でもない。
また、それにしても、東大卒という経歴の政治家のお粗末な言動が続くことも理解しがたい。他の大学ならよいというのでもない.高等教育無償化の動きがある中で、高等教育とは何か、国民のどのような付託に応えられるのか、再考が必要である。
ノンフィクション作家の梯久美子が、編集者として働いた折の編集長であったやなせたかしの言葉を紹介している。
「天才であるより、いい人であるほうがずっといい」(月刊「文藝春秋」7月号、p.261) (このところ月刊文藝春秋誌からの引用が多いが、たまたまそうなている。)
やなせは、地元高知県で愛されている。学校訪問で数度、高知県の南国市を訪れたが、道中の特急車両の天井絵が、大きなアンパンマンであることにびっくりした。遊園地の乗り物のような車両の中で、きっとやなせは、アンパンマンのようなひとだったのだろうと想像した。そして、アンパンマン=いい人だったのだろうと納得した。