6月例会では、以下の二教材に関する教材研究と実践の報告があった。教材1の本文は、上に画像として示す。(クリックで拡大。)
「たんぽぽのちえ」は、説明的文章教材としては、異例の長寿を保っている。が、その説明の方法には、いくつもの修正の歴史がある。
最も問題とされたのは、この教材の説明の方法として「擬人法」が用いられているということであった。
例えば、過去の教材では、冒頭段落からして、「春になると、たんぽぽは黄色いきれいな花を咲かせます。」である。たんぽぽの意思が
うかがえる説明である。またあ、第八段落では、「……たねを、ふわふわとばしてやるのです。」(現行は、「……とんでいきます。」)であり、
「擬人化」は、明瞭に後退している。
「擬人化」が、なぜ問題なのか。
国語科の「読むこと」の領域の二本柱は「文学」と「説明的文章」である。この呼称にすでにアンバランスな認識の状況が現れている。
文学は、なぜ、「文学的文章」ではないのか。学習指導要領では、「文学的文章」であるが、実践の世界では「文学」である。のみならず
「文学教育」に対しては「説明的文章指導」である。(私は「説明的文章教育」を用いる。)「擬人法」告発は、説明的文章支持派によるもの
かもしれない。
ただし、「たんぱぽのちえ」には、題名に「ちえ」という擬人化のエッセンスが残っているし、最終段落にも「……ちえをはたらかせて
います。」という叙述が残っている。不徹底といえば言える。
ところで、自然科学の世界では、専門領域の概念の指導に際して「擬人化」が極めて有効だという。国語科で神経質になることは、あるいは、
滑稽なことなのかもしれない。
国語を得意とする先生からの本音では、「たんぽぽさん」として読ませ、「たんぽぽさんはかしこい」というような読みに陥りがちだということ
である。自然科学の分野では、擬人化は、擬人化のままでおわりはしないであろう.国語科でも、たんぽぽの「しくみ」を人間の「ちえ」にたとえて
いるのだということは指導しなくてはならない。分かりやすくするための筆者の工夫の一つだということを指導すればよかったとも言える。
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ところで、児童の読みの実態から、分かったことがある。
教材の第八、第九段落は、対比(違いの比較)構造になっており、二つの段落の間には、論理指標表現として「でも」がある。この第八段落、第九段落
それぞれが読み取りにくいというのである。したがって、対比構造も分かりにくくなる。その理由を考えるに、選考諸段落は、最初の段落に、たんぽぽの
状態や行動を書き、次の段落にその根拠を説明するというように、二段落がセットになっている。そういう段落構造になれると第八、第九段落は、それぞれ
が先行する段落のセット構造を、一段落の中にかかえ込んでおり、しかも対比構造になっているので、児童としては応用が効かずに戸惑ったのであろう
と推測できる。私たち大人は、ついつい読み飛ばしがちの箇所であるが、児童の反応から改めて教材の特性に思い至ることがある。