それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

全ての教師が国語の教師

2017-08-24 22:11:16 | 教育

 故・倉澤栄吉博士(国語教育学の専門家)には、下記の著作がある。
 『国語の指導 だれでもどこでもできる すべての教師は国語の教師でなければならない』教育図書研究会 1951
 この言葉は、アメリカの国語教育界に流布していた言葉ではなかったかと思うが、それは、今はどうでもよい。この根本思想が大切なのである。
  折も折、九州の島部の小学校で、聴くに堪えない事件が起こった。沖縄タイムズによれば、以下の通りである。
  ******************************************************************************
 沖縄県石垣市内の小学校で1年生担任の女性教諭が「赤ちゃん」「脳みそ使えよ」などと複数の児童に暴言を発していたことが23日、分かった。教室でけがをしたという児童からは「先生に無理やり引きずられた」などと体罰を疑わせるような証言もあり、一部保護者が法務局に訴える動きもある。
 ********************************************************************************

 一年生という段階の児童が、どれほど幼く、頼りないかは、学校を訪問する機会に恵まれた者の目には一目瞭然である。小学校では、一人の教員が、すべての教科を指導するという非現実的なことがまかり通っている。しかも、このところ教員不足で、はっきり言えば、教員の質が、相対的に低下している。長い間、小学校の現場に出かけて授業研究を続けたり、国立大、私大を通して40年近くも教員養成に従事してきた身には、教員の質の変化もよく見える。私は、小学校の教員は、特別優秀な、心優しきスーパーマン(スーパーウーマン)でなければならないと考え続けてきたが、実態は異なることが多い
 「すべての教師は、国語の教師でなければならない」と同時に、「すべての教師は人間の教師でなければならない」とも思う。中学校、高等学校以降では遅すぎる。小学校では、是非、そのようであって欲しい。
 自分自身のことを振り返ってみよう.小学校から大学院まで21年間、児童、生徒、学生として過ごしたが、教員から人間としてとあり方について感化を受けたことは、極めてまれ、というよりほとんどなかった。期待もしていなかったことに気づいた。親が教育関係者であり、親戚にも教員が多かったことが、評価を下げていたのかもしれないが、実像をみていたのかもしれない。また、自分自身が、人間の教師であったとも思わない。
 秘書を面罵して有名になった女性国会議員は、東京大学法学部、ハーバード大学を、卒業、修了していた。国内第一級,米国第一級の大学でも人間教育には、全く手つかずだったことがよく分かる。大学以降の教育(高等教育)段階での人間教育は、ほとんど不可能である.その意味では,小学校における教員の存在は大きい。その人間的影響力も大きい。今回のような不良教員の事例を見聞すると大きな怒りを覚える。彼女は、教員としてよりも人間として不適格なのである。この教員によって傷ついた児童が,一日も早く,不幸な経験を乗り越えてくれることを祈るばかりである。 


「段落」って何?

2017-08-24 10:28:44 | 教育

 

 国語教室では、「段落」が、とても重要視されています。
 「段落分けをしなさい。」
 「一字下げになっていますか?」
 「段落に小見出しをつけてみましょう。」
 「ちゃんと段落になっていますか?」
 などなど、いずれも間違った問いかけや要求ではない。
 ところが、児童、生徒だけでなく、指導者に、「段落って何ですか?」と尋ねてみて、満足する答えが返ってくることは、まれ(ほとんどない)でです。
 Q:「段落って何ですか?」
 A:「意味のまとまり。」
  Q:「単語だって、文だって、また文章全体だって、意味のまとまりでしょう。」
  A: !
  A:「1字下げしてあるところ。」
 Q:「どんなところで1字下げするのですか?」
  A:「意味の区切り」(=意味のまとまり)
  このような堂々巡りが一般的で、いっこうに正解に届かない。それでいて、念仏のように、「段落」「段落」と言っているのです。

 では、「段落」とは何か。
 答えは、「原則的に、小主題文を一つだけ抱える、文の集合体」です。「原則的に」というのは、例外的に、小主題文のない段落も存在するからです。

 なぜ、我々(日本人)は、段落意識が希薄なのでしょうか。それは、すでに前回までに記載したcompositionの歴史の有無によるところが大きいのです。欧米では、作文は、「段落」の構成法として指導される。そこで、当然、「段落とはなにか」が最初の段階で教え込まれます。「1段落作文 」から始めるようですから、否が応でも「段落」とは何かがたたき込まれることになります。これに対して日本では、「文」単位を意識したりしなかったりして文章を理解したり、表現したりしています。一文、一文が発想を規定し、連想を呼び起こし、一連の表現や作品を創りあげる。随想などは、この類いであり、小学生の日記や生活文も、この仲間である.日本の子どもは低学年段階から長文の日記が書けます。これは欧米の児童にはできないことです。もっとも、これは児童の能力が異様に高いというよりは、日本語の文字構造にあることは頭に入れておく必要があります。
 日記や生活文によって「段落」を指導することは、連想式で、事前に規定しきれない発見があるという良さを持つわが国の児童が得意な自己表現類には向いていないのかもしれません。

  さて、本題に戻りましょう。「小主題文」とは何か。欧米由来の言葉で、topic sentenceと呼ぶ。かえって分かりにくくなる。日本語らしくいうと、「中心文」です。
 「中心文」とは何か。「中心文を抜き出しなさい。」という要求のみがあって、その方法を提示しないのは、わが国の国語教育の常道です。このような事実の積み重ねが、国語嫌い、国語不得手の子どもを生み出す。文系の学習も客観的に方法が指示できるようであってほしい。手探りやクイズでは、学習者が疲れます。
 「小主題文」「中心文」とは、「段落の中で『まとめる』働きをしている文」です。さらに年長者用に言うなら、「段落の文のうちで、一番抽象レベルが高い文」です。
 「①あそび方の一つに、『てつぼうよりむこうににげてはだめ。』など、にげてはいけないところをきめるものがあります。②にげる人が、どこへでもいくことができたら、おには、つかまえるのがたいへんです。同じ人が、ずっと、おにをすることになるかもしれません。(以下略)」(教科書教材『おにごっこ』、もりしたはるみ文より)
  これは、小学校低学年用の説明文教材の一部です。文①が中心文であり、②は①に付随する(あるいは、①から派生する)理由の一部です。②以下の文(省略したものも含めて)は、①に関連はするけれども、①の理由や、具体的説明の機能を担っていて、①による支配を受けています。つまり文①が、一番「まとめる」力が強く、したがって、一番、抽象レベルが高いのです。こういう仕組みは、同じような構成・構造(段落の第一文が中心文)の判定にも役立ちますし、他の構成・構造(中心文が終わりにくるもの)などの識別にも役立ちます。
 蛇足ですが、中心文が、「はじめ」「なか」「おわり」のうちの「なか」に来ることは推奨されません。日本人の書く段落には、しかし、このようなものもありますので、注意しましょう。
  中心文のない段落もあります。それは、具体例の中身を段落として記述したような場合です。段落の頭に、「たとえばね」とでも付けて読むと分かりやすい段落のことです。前の段落が、「例えば、次のような場合です。」などと終わっていれば、中心文なしの段落が来る可能性が大きくなります。(きっと来ます。)
  一文、一段落の場合は、迷うことなく、その一文が中心文です。
 なお、段落の特異な形として、会話文は、すべて段落扱いです。

  蛇足の蛇足:段落は一字下げになっているという形式を持ち出しましたが、会話文が二行以上に及ぶ場合はどうなるのでしょうか.」以下は、小学校の教科書と中学校の教科書の例です。
 A:(小学校)  「 あのくじらは、きっと
             がっこうが」(1行目と2行目の行頭が同じ高さ)
  B:(中学校) 「うん、これはきっと注文があまりに多くて支度が手間取るけれども

          ごめんくださいとこういうことだ。」(2行目の行頭が1字上)
 段落の表記の方法は、日本語の正書法の一部でしょうから、同じ検定教科書でありながら、小、中で異なるということは、決してよいことではありません。早急に改善が必要でしょう。何しろ、「小・中一環教育」が推進されようとしているのですから。

 さて、また本題に戻りましょう
 中心文の位置について、例示したものは第一文でした。日本人の書くものには、最終部分に位置するものが多いのです。いろいろ書いた(考えた)結果としてのまとめが中心文になっているのです。最初に中心文を置くことと、最後に置くことには、演繹法と帰納法という思考方法が関係してきます。日本人には、帰納的思考方法が合っているのでしょう。分かりやすいのは演繹法ですが、騙しやすく、騙されやすいのも、この方法です。「必ず儲かります」という中心文で始まる、ひとかたまりの(段落構造の)表現は、一度踏みとどまって、帰納法的に考え直す必要がありそうです。
 段落における中心文の位置と、文章全体における段落の位置、しくみは、よく似ています。日本人の書く文章の中心思想は、最後部に位置することが大半です。文章の要旨は?と問うと、児童、生徒の意識が後半部分に向かうのは、このためです。時には、冒頭で結論が述べてある文章で刺激を与えあるのもよいでしょう。

 ところで、読むことの授業において、一読後に、「意味段落(大段落)に分けましょう。」とか、ひどい例では、「5つの部分に大きく分けましょう。」などという要求をすることがあります。これは不適切です。典型的にダメとしか言えない事例です。一読で意味段落に分けられる児童、生徒は、国語の授業を受ける必要がないほどに成長した子どもたちです。厳密に言えば、形式段落(一字下げ形式のまとまり一つ一つ)の積み上げとして、学習の終わりにやっと分かるという性格のものでしょう。また、「はじめ」「なか」「おわり」の三つの部分に分けるのならともかく、5つや7つなどという変形の構造が分かるはずもないのです。(段落分けのために「ヒント」として、「関係の分かる段落群から明らかにしていく。それは文章の『部分』で構わない。分かるところ積み上げていくと最後には全体に行き着くというわけです。)
 また、教科書教材の常として、「おわり」の部分に癖があります。「要旨」を「筆者の意見・顔が出ているところ」などと規定すると大きな過ちを犯します。正しい意味での「おわり」の部分とは、「論理的帰結」を意味します。本文全体の論理から考えて、つまり先行する部分を積み重ねて最後に論理的に行き着くところ」が結論です。よくあるのは、本文から、筆者が勝手に発展、飛躍させて、多くは「教訓的な」意味を持つ段落を最後に持ってきていることです。これは論理による説得ではなく、感情的なお説教です。私は、これを、なくてもよい、非本質的な段落という意味で、「グリコのおまけ」と言っています。もっとも、グリコのおまけには、それなりの魅力がありますが、段落の場合は、迷惑なだけです。

 段落については、まだまだ多くのことを語る必要がありますが、またの機会にしましょう。