それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

言葉と暴力

2017-08-28 23:38:05 | 教育

 

 教員による暴力的言語使用については、一つの例を、既に取り上げたところであるが、今日の報道で、中学校の非常勤講師で野球部の監督をしている男が、懲罰のため、暑い中を長距離のランニングさせ、途中で上乗せまでしたことによって、生徒は重度の熱中症になり、集中治療室に運び込まれるという事態を招いたという。
  この非常勤講師の男は、教員としての基本が分かっていない。また、校長には任命責任がある。同僚も、監督の指導方法については、うすうす気づいていたに違いない.他人への口出しをしないというのも、教員の世界の知恵の一つであろうが、このような知恵の横行する学校および責任を個人になすりつけて終わる学校は、必ず荒れるか崩壊することになる。生徒たちは予想外に、人間としての教員を、シビアに見ているのである。
 つい先日は、支援学校の生徒が、やはり懲罰的ランニングで事故を起こしたばかりであった。
  私立の、あまり向学心のない学生のいる大学での授業は、私語、居眠り、果てはゲーム、お化粧という想像を絶する姿を見せる.15分に一回は笑わせる授業をしてくれという要求さえする学生も居るという.まじめに授業に参加しないのは、おもしろくないからといいたいらしい。早晩、こういう学校は、無くなると思うが、現在は、いやになるほどたくさんある。
 このような授業に辟易してきた身には、体育会系のクラブ活動の実態は、羨ましい.封建的、閉鎖的といわれがちな活動ではあるが、授業中の受講生の、死んだような姿に比して、クラブ活動中の生徒、学生は、必死の姿を見せる。多くの場合は、自ら進んで、茨の道を歩んでいるのである。仮に授業中に、このような姿を見せてくれていたなら、授業者は、感動して、受講生の成長のために、全精力を費やしても後悔することはなかろう。
 体育会系のクラブの監督は、基本的に、この希有な意欲をもつ生徒や学生の指導にあたたっているのである。懲罰的な行為をする理由が見当たらない.何を思い上がっているのであろうか.少々、野球の経験が多いとか、個人的に好成績を残しているとかいうことが何だというのであろう。軍隊やプロ集団ではなく、学校教育の一環として行われるクラブ活動は、人間教育を原理とすべきであり、さらに愛情、思いやりに基づくものでなくてはならない。
  高校野球は、春、夏の全国大会に見るように、次第に、代表校は私学に限定される方向にある。また、技量のプロ並みになってきている。が、試合の中継を見る限り、監督のありようは、厳しさ一辺倒ではない。人間性のありようは多様であるから、鍛え抜かれたチームがすべて、厳しい、非人間的な鍛錬の結果とは言えないのである。 
 プロの場合でも、一部の野球チームの横暴な監督の言動を見聞きすると不愉快である。シンクロナイズドスイミングの練習に際して発せられる女性監督の怒声も耳障りである。にこにこしていたり、優しく声を掛けることで成果が上がらないとするなら、それは、指導者の能力のレベルを示すことにならないか。プロの選手は、基本的に、人生のすべてをかけて鍛錬しているのである。ましてや、未熟かつ主体的な生徒、学生の指導に当たる者の教育的配慮は、時代錯誤や疑似(しかも模範にならぬ種類の)プロ仕様のものであってはならない。
  厳しい指導も穏健な指導も、「言葉」を伴う。伴うというよりも主たる手段であろう。国会議員の罵声のように、一度、指導の全体を記録して、視聴してみてはどうであろうか。こんなはずではなかった、ここまでとは思わなかったと反省する者には、まだ救いがある。そうでないものは、早々に手を引くべきである。教員の負担減のために、学校のクラブ活動の指導を、社会体育的観点から、部外者に委ねようという動きがあるようだ。教員の負担の重さは世界一であるから、負担軽減には賛成であるが、非教育的な指導が、学校に持ち込まれるのではなかろうかと危惧もしている。