昨年度は、自治会の役員を務め、何十回もの会合に出席した。その会合では、当然のことながら,話し合い、討議、討論が行われたのであるが,常に合理的に問題・課題解決がなされたとは言いがたい。それは、たまに,例外的にというよりも,大抵の場合、時間がかかる割に未消化の部分ののこる話し合いになっていると言ってよい。
スピーチや話し合いは、国語の基本であるから,義務教育を終えた時点で、だれもが習熟していてよいはずのものであるのに、わが国の国語教育では、話し言葉は、教科内容の主要部分に位置づけられてはいないのである。話し言葉は放置しておいてもいずれ習得できる。なぜなら、話し言葉は,外言(コミュニケーション用の言葉)であり,そのような言葉は実の場で、自然に習得していくものであるから,国語教育は、内言(思考言語=書き言葉)に限定するのがよいという,専門家による論文まで発表されたのである。
その結果はどうか。日本人は、話し言葉に関しては、単に経験にたよる知見しか持ち得ない,幼稚な話し言葉の使い手になってしまい、問題解決のための論理的話し合いなど全く不得手な民族になってしまった。時に、ディベートなどが流行することはあっても、それは一時のはやりであって,まじめな母国語の行為ではない。
日常生活における話し合いの基本技能について触れておきたい。
以下の心得は、前回のブログで紹介した倉澤栄吉氏が、だれかの考えを紹介したものだったと思い起こして,氏の著作集を当たってみたが見当たらない。記憶違いかもしれないが、学術論文ではないので、出典に拘ることは止めておこう。内容が問題なのだから。
話し合いには、通常、司会者を立てる。その司会者の心得として,以下の三つを挙げる。
1)流す
2)止める
3)変える
これは,司会者のみならず出席者・当事者すべてが念頭に置いて,話し合いに参加すべき心得である。
○「流す」とは:
教員採用試験などで、グループディスカッションを課せられることが普通であるが、その際,司会者を希望する受験生が多い(私の印象に過ぎないかもしれないが)。その理由は分かる。司会者になれば、問題そのものに入り込む苦労が少なく,メンバーから,意見・発言を引き出せばよいという、「流す」ことだけを考えるからである。さらには、発言なしという最悪な事態を避けることにもなるからである。
しかし、話し合いが、具体的な何かの問題を解決するためのものであるのなら,司会者の任務は,複雑、かつ重いものになるはずである。
○「止める」とは:
話し合いが進み、予想できる意見が出た(出尽くした)時点では、それまでの話し合いの内容を整理し,結論を確認しておきたい。これが、確認のための立ち止まりである。一区切りである。
○「変える」とは:
話し合いの過程と結果を確認した上で,これまでの話し合いが無謬の課題解決方法であったのか,他に取り残したことがらや,切り込み方はなかったのかということを評価意識を持ちながら探って見る行為である。少数意見の見直しの必要が出てくる場合もあろうし、発言をしないでいた人の意見を聞いてみることによって,新しい問題が浮上することもあろう。
すでに言ったように、これらは,第一義的には司会者の心得である。しかし、参加者すべてが意識、認識しておくことが,無理のない課題・問題解決に導き、後になって後悔することのない結論に到達する安全な方法である。感情に走ったり,大きな声の人間に引きずられたりすることのないようにするための安全装置でもある。
このようなことが、なぜわが国の学校の国語教育で指導されないのであろうか。グローバル化を追求するあまりに、大事な国語を軽く見て,英語に走ることが妥当であるのかどうかを、きちんと「話し合って」みてはどうだろうか。