それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

AIと教育

2017-10-17 22:28:43 | 教育


  今月号(11月号)の月刊文藝春秋(週刊文春よりはまじめで控え目である)に、「AIで『未来の年表』はこう変わる」という、河合雅司と井上智洋(経済学者)の対談が掲載されている。AIの未来像が論じられていておもしろい。
 AIが進化するとそれに取って代わられる職業が様々存在する。確かに、人間でなくともよい職種、人間よりも合理的な職種もあるが、果たして、すべての分野にAIが入り込み、人間を圧迫するかというと、幸いなことに、そうもいかない。
  かつて(たぶん50年近く前)、教育の分野には、ティーチング・マシンなるものが試験的に導入され、その可能性が検討されたことがある。人間の考えることは、時代を経ても大きくは変わらないものだと思う。
  結果はどうだったか。現状を見れば分かるはずで、教育は、人間の教員によって行われており、AIやコンピュータにとって代わられることはなかったのである。その理由を二つあげておこう。 
 教える器械(teaching machine)には、プログラム、コンテンツが必要になる。機器というハードの部分だけではただの箱で、これはパソコンを考えれば分かるであろう。パソコンには、OSというシステムと、アプリケーションや、データなどのソフト部分が必要になる。ティーチング・マシンも同様で、機器で使用するソフト(カリキュラムや教材)が必要になる。それは、機器が自分でつくるわけではないので、だれかが作らなくてはならない。その作成の煩雑さ、労力に耐えきれなくなったというのが理由の一つである。
 もう一つの理由は、教育愛という非論理的な側面に、機器は対応できないということである。教育は、人間対人間の、人間的な営為である。機器は補助的に使用できるにしても、すべてを任せるわけにはいかない。当然のことである。今でも、パソコンを使用した学習を売りにした学習指導形態があるが、機器が、どのような位置づけになっているのか理解しておくのがよいように思う.学習指導は、人間の教師が主、機器が副であってほしい。もっとも、先日の、学級担任の不適切で傲慢な対応が、生徒を死に追いやるような学校では、機器が主である方が望ましいともいえる。人間の側に教育愛が、完全に欠落しているからである。

  情報公開と旗印にして、都知事になった女史が、彼女の政策決定過程が不透明と責められた。多くの問題を、議会審議を経ることなく、特別諮問会議の意見によって処理する姿勢を詰問されたのである。「最終的にだれが決定しているのか?」と問われて、ついに、「AI、人工知能です。つまり私です。」と、例によって意味不明の目くらまし発言をした。少なくともAIは、不法に責任を押しつけられたのである。AIを責任逃れの装置に追いやってはならない。