(近くの私大の大学祭に打ち上げられた花火:自宅の窓から)
希望の党代表の「排除」発言については、このブログで、すでに指摘しているが、同女史が、党の代表辞任を迫られて答える言葉の中に、「創業者としての責任」なる言葉があった。どうも、女史が、政党の立ち上げを、セレクト・ショップの開店と同じように考えているのではなかろうかと気になって仕方がない。
録音はしていないが、選挙敗北の責任について、「私にも」と言っていたようだ。この場合の「も」は重大な意味を持つ。「……とは思う」の「とは」も同様に潔くない。
言葉は、単なる技術や知識の表れではない。人間の本質がにじみ出たものであり、それを発する人間そのものである。意識していようといまいとにじみ出てくるものは正直である。
自民党の麻生大臣は、失言で有名な人であるが、「失言」という言葉も信じがたい。この場合も、人間の本質の表出とおもわれるからである。選挙での大勝について、「今回の勝利は、北朝鮮のおかげで……」と口にして、野党から「おかげ」とは、あの北朝鮮を評価する言葉であって、不謹慎だというのである。麻生氏は、「皮肉なことだが」とでも付ければよかったのに、そういう周到な言葉の使用は、彼の話法には存在しない。その不用意さも含めて、彼の本質を表している。野党の芸のない批判も、彼らの本質を表現しているのである。(時の権力が、民衆の支持を回復するために、外国との関係の危機的状況、例えば戦争を利用することは知られているので、麻生氏の言葉には真実が込められているとも言えることは付言しておこう。)
言葉は、こわい。「言葉の上のこと」などと言ってはならない。