以前の投稿にも重なるが、『文藝春秋』11月号に、「作家が見た良い刑事と悪い刑事」なる対談がある.その中で、黒川博行氏は、次のように言っている。
「……現役時に署長クラスまで昇進したような人たちは、人間が良くないですね。わりに最後まで現場に残って定年を迎えた人のほうが、俺は人間的に好きです。」
「やっぱり出世したお巡りさんは官僚的だし、権威主義的に見えます。この人は上ばっかり見て仕事をしてたんやな、というのが透けてみえて嫌なんです。」
むろん、上のような発言に該当しない人もいるはずであるが、対談者の言葉のように、「少数派ですね。」ということになるのであろうか。
教育の世界では、署長該当するポストとして、「校長」や「教育長」などが存在する。学校で問題がある度に、記者会見して、お詫びや弁解をする姿をよく見る。が、エッ!これが校長? 教育長?ということが多い。
今回、担任の指導が問題で、自殺者を出した学校の校長は、「嘘」をついていた。それも、生徒を激しく叱責する現場に居合わせたにもかかわらず、「目撃しなかった」という大嘘である。この一点をもってしても管理職失格、教員失格である。しかも、加害者である担任を他校に転勤させるという姑息なことは、しっかりと実行するほどの悪知恵の持ち主であった。これは「もみ消し」という悪事である。
仕事柄、多くの校長に会ってきた.無論、中には立派な教育者、管理者も存在したが、「この人がなぜ?」というようなケースも稀ではなかった。大学では教員養成学部の学生であったので、同級生のほとんどが教育現場に出ている。校長になった者も、管理職になることもなく定年を迎える者も、管理職を拒否した者もいる。中には、なぜこの男が?と思うような校長もいる。逆の場合もある。上昇志向、権威主義、不誠実な管理職の元で仕事をするようになると教職員はもとより児童・生徒も大きな被害を受けることになる。お詫びの記者会見をするような問題を起こす学校の管理職だから、似たような欠陥人間が多いのかもしれないが、教育の現場は、理想的でリベラルな場であって欲しい。
かつて、親戚の葬儀の折に、参会者が教育談義を始めた。「世間は、学校でおしえているように理想的なものではない。そのことをちゃんと教えておかないと、子どもは生きていけなくなる」という趣旨の話に落ち着きそうになった。その場に、教員は、私一人であったので慌てた。そこで、「世間は、理想的なものではないというのはその通りだけれども、せめて学校だけでも『理想』を説かなくてはならない。そうでないと、子どもは、世の中に『理想』などないのだという認識しかできなくなるのではないだろうか。」という趣旨の発言をしたことを思い出す。気が重いことかもしれないが、理想を説くだけでなく、理想を体現する生き方をしなくてはならないのだろう。理想的な存在にはなれないかもしれない(かもしれないのではなく、ありえないのであろう)が、かくありたいともがく存在ではありたい。