三原・新高山城跡よりの眺望
アメリカでは学校内で、銃の乱射事件が連続発生し、ついに、保守的なライフル協会も、銃についての対応策を発表せざるを得なくなった。その内容は、銃の保持を禁止するのでなく、連射装置付きの銃の否定であり、いろいろと考えさせられた。問題の根本的な解決にはならない。
安全な施設だと思われる学校であるが、時にわが国でも残忍な事件が発生する。ただし、銃による事件がないのは、単に銃の保有が認められていないからであろう。アメリカでは銃保有率が8割を超えるという。わが国が同様の事態になれば、恐らく、学校その他の施設で発砲事件が生じる可能性はある。
多様な民族により構成されたアメリカ、先住民との緊迫した環境の中で作り上げた国家であってみれば、自分のことは自分で守るという伝統ができ、もっとも有効な方法として銃器を保有することが多くなったのであろう。
わが国の戦国時代のように、殺し殺されるのが常態の時代には、自らを守るためには、ひたすら危険な状態から逃避するか、集団体制を維持するか、有効な武器を手にするしかなかったであろう。秀吉の「刀狩り」(刀狩りそのものは、鎌倉時代に始まるそうだが)は、こういう危機的な状況の解決策一つであろうが、武士の刀所有を否定したわけではない。武士の地位保全、一揆の防止であった。これに対して、廃刀令は、すべての国民の武器(刀)所持の禁止である。一部の例外を設けながら、一方で所有を禁止することは、核兵器の場合にも言える。核保有の大国、既保有保有国は保有を認め、他の国が新たに保有することは認めないという核兵器禁止条約は、いわば刀狩りに近い。北朝鮮が、「現に、保有国があるのに、なぜわが国が核をもってはならないのか!」と反論するのも、賛成はできないが、一理はある。
すべての国の核兵器を禁じるためには、「廃刀令」のような申し合わせが必要である。わが国は、被爆国でありながら、核兵器の全面禁止の動きから外れている。国のあり方としては無責任で恥ずかしい。アメリカの核の傘に守られているという遠慮のようであるが、現状に矛盾があるのであり、核兵器の全面禁止を切望するという姿勢を表明したとして誰が非難するであろう。また、日本が言わなくて、どの国が発言し、その発言に説得力があるのだろう。