ある映画の冒頭に、マーク・トウェインの言葉が引用されていた。概略、次のような言葉である。
人間には重要な二つの日があり、一つは生まれた日、もう一つは生まれた意味を知った日。
というのであった。
ちょっと気が利いている。が、これは、映画制作者の独創ではない。マーク・トウェインの独創的言辞を引用したに過ぎない。世の中に存在する多くの言辞の中から、これを選び出した、そして紹介したという点では、いくぶんか褒められていいかもしれないが、それは大したことではない。いわば、「他人のふんどしで相撲を取っている」に過ぎないのである。
言語作品や音楽、絵画等には「著作権」というものがあり、固有性を保護しており、時々、それを侵害する事件が発生して、固有性、独自性、創造性というものの存在を再認識させるが、「知的所有権(財産権)」と言われるものの範囲は広く、個人的な利用範囲を超えて表現、発信する場合は注意を要する。
ブログなどでは、著作権侵害の事例が多い。作品丸ごとの引用、規模の大きな引用が自由自在に行われている。他者の個性的産物は軽々に利用されてはならない。また、それらを使用したからといって、引用者の言葉や情報の創造性、個性が保障されるものではない。にもかかわらず無断引用(パラサイト行為)が横行するのはなぜであろうか。根源的には、固有性、創造性に対する認識の甘さによるのであろうが、今日のように、SNSを通じて、極めて容易に情報発信できるため、公私の区別が付けにくくなっていることも関係してくるのかもしれない。個人的な、閉じられた世界での表現なら問題にならないことが、広く社会に向けて発信されると問題になるのである。他者の独創的な言辞を丸ごと引用して発信したり、共有(シェア)したり、同意(いいね)したりしても、引用者の独創性にはならないのは言うまでもないが、内容が他者の誹謗中傷の場合は、最初の発信者と同じ責任を帯びることになるらしいので注意を要する。
朗読や演奏という行為は微妙である。言語作品の朗読の場合、作品の独自性が尊重されるべきものであることは言うまでもない。また朗読が個人を超えて他者に向けてなされる場合は、著作権保護の問題が生じるのは当然であるが、「朗読」という行為の独自性、個有性はどういう性質のものとみればよいのであろうか。
最も分かりやすいのは、詩人や小説家が、自分の作品を朗読する場合であり、これは著作権侵害のおそれは、ほとんど存在しない。(「ほとんど」というのは、著作権が個人の手をはなれている場合もあるからである。)しかし、作家の自作朗読を聴いた人は共感されるであろうが、一番作品を理解しているはずの人間の朗読の多くが、耳を覆いたくなるほど低レベルなのである。要するに、作品を創造することと、音声表現することは、別のスキルであり、朗読もまた個性的表現行為なのである。時々、アナウンサーや俳優、声優など、専門家による朗読が商品化され、販売されているのは、このような事情を反映している。
これは、音楽の世界における「作曲」と「演奏」の関係の場合と同様であろうし、こちらの方が分かりやすかろう。モーツアルトやリストのように、作曲も演奏も一流の人間の場合はともかく、ほとんどの場合、創作と演奏(表現)は別個の行為であり、それぞれが、固有性、独自性として認められる。絵画や彫刻の場合は、演奏者に相当する存在を想定できないので、また別の事情があるように思われる。
独創性とは、表現者個人の所有物であることは言うまでもない。それを利用する場合は、当然のことながら、ルールやマナーがある。安易な利用,盗用は、最初の表現者の権利を侵す違法行為と見なされるばかりでなく、引用者の品位を汚すことになる。言いたいことは,自分の言葉で言おう。そして大抵のことはすでに誰かが言っていることに気づいたらきちんと引用していることをルール基づいて表明しておこう。
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