今朝の毎日新聞の投書欄に、一人の女子大生の文章が掲載されていた。スマートフォン用のフリーマーケット・アプリを使用して、「読書感想文」の売買が行われているというのである。
世の中には、いろいろなことの代行をしてくれる仕事があるから、読書感想文を売買すすることを思いつく人間がいても不思議はない。政治家や芸能人の著書にはゴーストライターの存在があることもあり、欠席した講義のノートを複写して販売する商売があることも知られていた。子供の宿題を,親や兄弟姉妹、頼りになる友達に手伝ってもらうことも似たようなものである。飲酒運転をするよりは,代行運転を利用する方がよい。
このように考えると,代行そのものの存在を責め立てても、それがなくなりそうにはないから、ここでは、読書感想文に限って、「なぜ、読書感想文の代行が成り立つのか」ということを,教育・国語教育の問題として分析してみたい。
一線を退いた身としては、毎日、読書三昧である。これで、読書という習慣がなければ、一日をどう過ごしているのだろうと考えて、慄然とし、書物の存在に感謝するばかりである。
自由な,生活の中での読書が、学校の読むことの教育の原点、原理でなくてはならない。が、実際はそうなっていない。
学校における読みは、①何が,どのように書いてあるのかを読解する(理解する)ことが最重要視される。このような読み、および読みの能力が大切な一面であることは否定できない。しかし、それは一面である。なぜ、このような読みが最重要視されるようになったのか。それは,藩校、寺子屋の時代の読み物、明治初期の子供の読み物が,発達段階に沿ったものでなく、大人向けの,レベルの高い,難解なものだったからである。むろん、今日の児童、生徒用の読み物(教科書)は、彼らの発達段階に即したものになっているが、教育の方法は,旧態依然としたものに終始しているのである。読み物は、子供たちには難しいレベルのものであるから、その内容と形式を、あるがままに正確に理解させようとし、そのことでへとへとになって終わるのである。その結果、読むという行為は,苦行になり、読書好きの子供に嫌悪されるものとなる。一読すれば,9割方理解できる読み物を、10時間以上もかけてつつき回し、しかも正確な読みを求められればいやになるのは当然である。
そこで、読書の、もう一つの面に目を向けてみよう。そこで養う能力は、②読んだもの,読みつつあるものを,自分の立場から意味づけ、評価することである。強制もされないのに読書をするのは、このような楽しみがあるからであって,場面分けや段落分けをしたり、主題・要旨を言い当てたり、漢字を覚え,語彙を増やし,日本語文法を学ぶためではない。それらは、②のような読みの過程や結果として身についてしまうものなのである。
こういう読みは,教室では推奨されない。子供たちの反応(今読んでいる文章や作品の内容や形式の確認のほかに)を教室で表現させ、読書会のような授業を展開することなど教師は、考えもしない。どこに進んでいくのか見通しもつかない,迷える授業になりかねないからである。どの子も同じレールを,一斉に進んでくれることがありがたい。これは、教師の側の論理である。「教師ファースト」の授業である。児童・生徒の個性的な,切実な思いなど生まれるわけがない。つまり,感想文とは縁のない読みを押しつけているのである。
長い休みには、決まって読書感想文や日記の宿題が出る。児童・生徒は、学校で教えられることのない種類の活動なのであり、どう取り組んだらよいのやら分からず、ついつい一番後回しになる、忌々しい存在である。それでもまじめな子供は、かなりの長さの感想文を仕上げる。日頃の学校での授業を反映して,上記①の仲間である「あらすじ」を長々と書いてしまうことを笑ってはならない。それは日頃の授業の必然の結果なのであるから。
教室での読みも,①の前と後には、かならず②を意識して,読書をさせたい。自分自身の個性的な反応を重視することから出発し,自分の反応を確かめ,磨き上げること、そのために正確に読むことも要求するという当たり前の読みを体験させよう。自分の思いは他者のそれとは異なる。,実感が持てないということが分かると,他人の書いた感想文などに救いを求めることはなくなるであろう。
もう一つの厄介者である「日記」については、別の機会に論じよう。
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