それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

「段落」って何?

2017-08-24 10:28:44 | 教育

 

 国語教室では、「段落」が、とても重要視されています。
 「段落分けをしなさい。」
 「一字下げになっていますか?」
 「段落に小見出しをつけてみましょう。」
 「ちゃんと段落になっていますか?」
 などなど、いずれも間違った問いかけや要求ではない。
 ところが、児童、生徒だけでなく、指導者に、「段落って何ですか?」と尋ねてみて、満足する答えが返ってくることは、まれ(ほとんどない)でです。
 Q:「段落って何ですか?」
 A:「意味のまとまり。」
  Q:「単語だって、文だって、また文章全体だって、意味のまとまりでしょう。」
  A: !
  A:「1字下げしてあるところ。」
 Q:「どんなところで1字下げするのですか?」
  A:「意味の区切り」(=意味のまとまり)
  このような堂々巡りが一般的で、いっこうに正解に届かない。それでいて、念仏のように、「段落」「段落」と言っているのです。

 では、「段落」とは何か。
 答えは、「原則的に、小主題文を一つだけ抱える、文の集合体」です。「原則的に」というのは、例外的に、小主題文のない段落も存在するからです。

 なぜ、我々(日本人)は、段落意識が希薄なのでしょうか。それは、すでに前回までに記載したcompositionの歴史の有無によるところが大きいのです。欧米では、作文は、「段落」の構成法として指導される。そこで、当然、「段落とはなにか」が最初の段階で教え込まれます。「1段落作文 」から始めるようですから、否が応でも「段落」とは何かがたたき込まれることになります。これに対して日本では、「文」単位を意識したりしなかったりして文章を理解したり、表現したりしています。一文、一文が発想を規定し、連想を呼び起こし、一連の表現や作品を創りあげる。随想などは、この類いであり、小学生の日記や生活文も、この仲間である.日本の子どもは低学年段階から長文の日記が書けます。これは欧米の児童にはできないことです。もっとも、これは児童の能力が異様に高いというよりは、日本語の文字構造にあることは頭に入れておく必要があります。
 日記や生活文によって「段落」を指導することは、連想式で、事前に規定しきれない発見があるという良さを持つわが国の児童が得意な自己表現類には向いていないのかもしれません。

  さて、本題に戻りましょう。「小主題文」とは何か。欧米由来の言葉で、topic sentenceと呼ぶ。かえって分かりにくくなる。日本語らしくいうと、「中心文」です。
 「中心文」とは何か。「中心文を抜き出しなさい。」という要求のみがあって、その方法を提示しないのは、わが国の国語教育の常道です。このような事実の積み重ねが、国語嫌い、国語不得手の子どもを生み出す。文系の学習も客観的に方法が指示できるようであってほしい。手探りやクイズでは、学習者が疲れます。
 「小主題文」「中心文」とは、「段落の中で『まとめる』働きをしている文」です。さらに年長者用に言うなら、「段落の文のうちで、一番抽象レベルが高い文」です。
 「①あそび方の一つに、『てつぼうよりむこうににげてはだめ。』など、にげてはいけないところをきめるものがあります。②にげる人が、どこへでもいくことができたら、おには、つかまえるのがたいへんです。同じ人が、ずっと、おにをすることになるかもしれません。(以下略)」(教科書教材『おにごっこ』、もりしたはるみ文より)
  これは、小学校低学年用の説明文教材の一部です。文①が中心文であり、②は①に付随する(あるいは、①から派生する)理由の一部です。②以下の文(省略したものも含めて)は、①に関連はするけれども、①の理由や、具体的説明の機能を担っていて、①による支配を受けています。つまり文①が、一番「まとめる」力が強く、したがって、一番、抽象レベルが高いのです。こういう仕組みは、同じような構成・構造(段落の第一文が中心文)の判定にも役立ちますし、他の構成・構造(中心文が終わりにくるもの)などの識別にも役立ちます。
 蛇足ですが、中心文が、「はじめ」「なか」「おわり」のうちの「なか」に来ることは推奨されません。日本人の書く段落には、しかし、このようなものもありますので、注意しましょう。
  中心文のない段落もあります。それは、具体例の中身を段落として記述したような場合です。段落の頭に、「たとえばね」とでも付けて読むと分かりやすい段落のことです。前の段落が、「例えば、次のような場合です。」などと終わっていれば、中心文なしの段落が来る可能性が大きくなります。(きっと来ます。)
  一文、一段落の場合は、迷うことなく、その一文が中心文です。
 なお、段落の特異な形として、会話文は、すべて段落扱いです。

  蛇足の蛇足:段落は一字下げになっているという形式を持ち出しましたが、会話文が二行以上に及ぶ場合はどうなるのでしょうか.」以下は、小学校の教科書と中学校の教科書の例です。
 A:(小学校)  「 あのくじらは、きっと
             がっこうが」(1行目と2行目の行頭が同じ高さ)
  B:(中学校) 「うん、これはきっと注文があまりに多くて支度が手間取るけれども

          ごめんくださいとこういうことだ。」(2行目の行頭が1字上)
 段落の表記の方法は、日本語の正書法の一部でしょうから、同じ検定教科書でありながら、小、中で異なるということは、決してよいことではありません。早急に改善が必要でしょう。何しろ、「小・中一環教育」が推進されようとしているのですから。

 さて、また本題に戻りましょう
 中心文の位置について、例示したものは第一文でした。日本人の書くものには、最終部分に位置するものが多いのです。いろいろ書いた(考えた)結果としてのまとめが中心文になっているのです。最初に中心文を置くことと、最後に置くことには、演繹法と帰納法という思考方法が関係してきます。日本人には、帰納的思考方法が合っているのでしょう。分かりやすいのは演繹法ですが、騙しやすく、騙されやすいのも、この方法です。「必ず儲かります」という中心文で始まる、ひとかたまりの(段落構造の)表現は、一度踏みとどまって、帰納法的に考え直す必要がありそうです。
 段落における中心文の位置と、文章全体における段落の位置、しくみは、よく似ています。日本人の書く文章の中心思想は、最後部に位置することが大半です。文章の要旨は?と問うと、児童、生徒の意識が後半部分に向かうのは、このためです。時には、冒頭で結論が述べてある文章で刺激を与えあるのもよいでしょう。

 ところで、読むことの授業において、一読後に、「意味段落(大段落)に分けましょう。」とか、ひどい例では、「5つの部分に大きく分けましょう。」などという要求をすることがあります。これは不適切です。典型的にダメとしか言えない事例です。一読で意味段落に分けられる児童、生徒は、国語の授業を受ける必要がないほどに成長した子どもたちです。厳密に言えば、形式段落(一字下げ形式のまとまり一つ一つ)の積み上げとして、学習の終わりにやっと分かるという性格のものでしょう。また、「はじめ」「なか」「おわり」の三つの部分に分けるのならともかく、5つや7つなどという変形の構造が分かるはずもないのです。(段落分けのために「ヒント」として、「関係の分かる段落群から明らかにしていく。それは文章の『部分』で構わない。分かるところ積み上げていくと最後には全体に行き着くというわけです。)
 また、教科書教材の常として、「おわり」の部分に癖があります。「要旨」を「筆者の意見・顔が出ているところ」などと規定すると大きな過ちを犯します。正しい意味での「おわり」の部分とは、「論理的帰結」を意味します。本文全体の論理から考えて、つまり先行する部分を積み重ねて最後に論理的に行き着くところ」が結論です。よくあるのは、本文から、筆者が勝手に発展、飛躍させて、多くは「教訓的な」意味を持つ段落を最後に持ってきていることです。これは論理による説得ではなく、感情的なお説教です。私は、これを、なくてもよい、非本質的な段落という意味で、「グリコのおまけ」と言っています。もっとも、グリコのおまけには、それなりの魅力がありますが、段落の場合は、迷惑なだけです。

 段落については、まだまだ多くのことを語る必要がありますが、またの機会にしましょう。


気になる表現-2

2017-08-22 23:00:01 | 教育

 世の中には、耳慣れない、落ち着きの悪い表現が少なからず存在する。それはそれで当然の現象とも言えるが、違和感のある表現を、どこでも目にし、耳にする、特に放送メディアを通して目や耳に届くと、長年国語教育に従事してきた者には、時に耐えがたいものがある。そのような違和感のある表現のいくつかを取り上げてみよう

①「有効的」……使用例:「こういう方法が有効的です。」 別に、北挑戦や、中国、ロシア、さらにはトランプ氏と仲良くするための方法ではない。「役に立つ」という意味で、「有効的」といっているのである。「的」は要らない。「こういう方法が有効である。」というのが正しく、音節の節約もできる。なぜ「有効的」などというのか、私には意味不明である。

②「難易度」……使用例「この技術は難易度が高い。」「難易度」とは、「何度+易度」のことであろうが、大抵の場合、「難度」を意味する言葉として用いられている。ならばなぜ「難度が高い」とか、「難度が低い」と言わないのだろうか。いやいや、「難度」の程度ではなく、「難+易」合わせたものの程度だというのかもしれないが、その場合でも、「難度」だけで用は足りる。言葉は、省エネの方向に変化するという傾向がある。その傾向に反しているし、「難しさ」のことを言っているのか、「易しさ」を言っているのか判然としないことは問題であるし、無駄なエネルギーを使う言葉である。

③「メルヘンチック」……使用例「この絵はメルヘンチックですね。」若い女性がよく口にする。この言葉を、英語だと思っているのではないだろうか。広辞苑の見出し語にもなっているから恐ろしい。メルヘンは、ドイツ語である。しかも最初のaにはウムラウトが付いている。ドイツ語にチックを付けていかにも形容詞風にした和製造語である。使わない方がよい。多くの日本語が、世界に通用するようになっている時代に、訳の分からない和製の外国語風語彙を生み出す必要はない。

④「メチャ」「チョ-」……使用例「メチャ悔しい。チョー悲しい。」 これは、無茶苦茶、滅茶苦茶……という程度の激しいことを言う、さほど上品ではない表現である。スポーツの世界大会やオリンピックなどで、選手にインタビューをする中で出てくると、耳を覆いたくなるほど恥ずかしい。日本語には、「とても」「とっても」「非常に」などという言葉がある。古くさくてインパクトがないなどと思ってはならない。どれほど品格があり、重みがあるか、一度インタビューで使ってみるとよい。天才棋士と呼ばれる藤井四段(中学生)は、読書量も多く、語彙も豊富で、感じ入ることが多い.一流のアスリートは、わが国を代表する存在でもあるから、できることなら知的であって欲しい。「ウザイ」だの「ヤバイ」などの人口に膾炙してしまった言葉も控えて欲しい。


女性脳と男性脳

2017-08-21 22:20:04 | 教育

 

 作文にしろ、スピーチにしろ、その構成(スピーチの原稿も含めて文章構成と呼んでおこう。)は、重要である。欧米では、作文のことをcomposition と呼ぶが、その意味は、「構成」「組み立て」である。美術では構図、音楽では作曲であるが、いずれも、単位・要素を特定の目的のために構成、構造化する行為である。作文の場合は、単位となる段落の組み立て方を言う。
 作文を例に取れば、その内容の組み立てが、時間軸に沿ってはいるが、だらだらと進行し、主題や主張がはっきりしないものがある。
 小論文の作成指導に際しては、学生たちに、最初の段落(つまり)「はじめ」に、主張、結論を書けというが、なかなかそれができない。その理由を探ってみると、いくつかの原因に行き着く。
 その一つは、わが国の児童、生徒は、幼い頃から、「日記」や「生活文」を書いている。生活文においては、この種の文章は、作文のジャンルとしては世界的に希有なものであるが、エッセイ(随想やおはなし)の類だとみれば、世界第一級のできばえである。しかし、それが災いすることもある。
 日記や生活文は、時間軸に沿って書くのが普通である。極端な場合には、「ぼくはけさ6時に起きました。」などと書き始めることが可能あである。書く前に、主題がはっきりしていなくても、書いていくうちに明瞭になってくることもある。もっとも、書くという行為には、書いていく過程で初めて分かることがあるのが特徴であるが、そういうレベルの話は、今は措いておこう。
 日本の子どもが、小論文をはじめとする論理的文章に苦手意識を持つのは、この小学校、中学校時代の作文の特徴と関係があろう。
 今、読んでいる雑誌、『新潮45』9月号に、おもしろい記事がある。「なぜ妻は夫にムカつくか」(黒川伊保子・人工知能開発に従事している。)
 彼女は、以下のように言う。
「この世には、何語であろうと二つの会話スタイルがあり、女性は主にプロセス指向共感型で、男性は主にゴール指向問題解決型で対話を進めたがる。」(p.42)
 そう言えば、いつも感じていたことであるが、家内と話をしていて、いつもそのノロノロした進行具合にイライラして、「結論から話せ。」と小論文みたいな要求だと思いつつ、批判をしていた。女性脳は、丹念にプロセスを追っていかないと認識方法としても表現方法としてもしっくりこないもののようなのである。このことを知って、私も、やや冷静で寛容になった(ような気がする)。とはいえ、プロセス重視でない女性も、プロセス型の男性もいるので、一概には言えない。それで、黒川女史は、「主に」と、上手に逃げているのである。これは見方によればセクハラか?と思うが、主張している人が女性であるから、単に、事実に関する科学的な見解に過ぎないのかもしれない。
 彼女は、次のようにも言っている。
「こんな重要なことを、なぜ、義務教育の国語か家庭かで教えないのであろうか。」とも言っている。これは危うい主張のようであるが、少なくとも、こういうタイプが女性には多いよ。」「男性には、こういう考え方する人が多いよ。」という指摘は必要かもしれない。その上で、性差を超えて、両タイプの思考方法の良さと問題、使いこなす技量の修練をさせるのがいいかもしれない。わが国の場合、単なる性差と言えないのは、上記のごとく、小、中学校時代の作文のジャンルの特徴の影響もあるからである。かくして男女ともに、主題明示、問題解決型の文章は得意とは言えない状態であるが、男女の脳の特性を理解しておくことは悪いことではなかろう。 


待遇表現にかかわる疑問

2017-08-21 15:13:41 | 教育

  下に掲げるのは、秋篠宮とご長女のハンガリー訪問を報じた朝日新聞のネットニュースの一部である。
  日本語は、微細な待遇表現を上手にこなす仕組みになっていると思っていたが、どうも皇室関係の新聞報道の表現には違和感がある。全国紙の中では思想的に左の極にあると思われている朝日新聞に特有のことかと思っていたが、読売新聞の場合も、ほぼ同様であるところを見ると、日本のジャーナリズム一般の問題のようだ。
 私なりに、違和感のある部分を、(太字)という形で代案を提示してみた。最低限の修正である。「お二人」「……様」は、当然、文末までを支配する語句である。途中で、敬意を失っているかに見える表現のゆがみが、違和感を生じる元である。
 私の立場は、特別に皇室の思い入れがあるとは言えないが、日本語の使用者として、同意できないものがあるという意味で取り上げてみた。
 ジャーナリズムの場合、中途半端な敬意しか表現できないのであれば、はじめからニュースとして取り上げないのがよい.ニュースは、すでにあるのではなく、作り出すものであるから、作らなければよいし、ニュースにするのなら、それなりの覚悟と用意をして、言語表現の規則を守り、報道者の責任を全うすべきである。

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 ハンガリーを訪問中の秋篠宮さまと長女眞子さま(25)は20日、首都ブダペストから南へ約100キロのキシュクンシャーグ国立公園内にあるブガツ・プスタ(大草原)農場を訪れた(訪問された)。家畜の研究者でもある秋篠宮さまが8年前に公務で訪れて関心を持ち(持たれ)、今回は私的旅行として、婚約内定を目前にした眞子さまを伴って再訪した(された)。

 お二人は馬車で農場に到着し、馬術ショーでハンガリー伝統の騎馬技術を見学。さらに雨が降る中、ハンガリー固有種で「食べる国宝」とも言われるマンガリッツァ豚の畜舎を訪れ、「脂身が良質です」などと話すマジャール・ガボル国立公園副園長の説明に耳を傾け(られ)た。

 マンガリッツァ豚はハンガリーでも一時は飼育農家が減り、国を挙げての保護策で絶滅の危機を逃れた。眞子さまは秋篠宮さまの傍らで身をかがめ、毛が多く、羊のようにも見える豚を興味深そうにのぞき込んでい(おられ)た。マジャール副園長によると、秋篠宮さまは専門的な質問をくり返し(され)、いったんその場を離れたあとも写真を撮るため再び豚舎に戻っ(られ)たという。

 秋篠宮さまは日本とハンガリーの外交関係開設140周年などで中東欧4カ国をご夫妻で歴訪した2009年にも同じ農場を視察し(され)た。しかし、関係者によるとそのときには十分な時間がとれず、再訪を心待ちにして(されて)いたという。

 お二人は、眞子さまの専門である博物館資料など、それぞれの調査研究を目的に22日までの予定でハンガリーを訪問中。前日の19日はブダペストで民族博物館や農業博物館を訪ね(訪問され)た。21日には国内のマンガリッツァ豚の生産農家も訪(問さ)れる。(ブガツ=喜田尚)

 
 


気になる表現

2017-08-16 14:22:45 | 教育

 (庭の隅の畠で開いたオクラの花)

① 「私って、これ、好きかも(しれない)。」
   こういう表現を耳にすると、のけぞりそうになる。「好き」「嫌い」の主体は、他ならぬ「自分自身」なのである。「かもしれない」などという怪しげで、曖昧な認識(感じ方や考え方)をする人間がどれほどいるのかを考えると、例外的存在であろうと想定するが、そうではない。いくらでも、こんな表現をする人間、特に若い女性が存在するのである.こんな女性とは、付き合わないのが得策であろう。さんざん時間とお金を費やし、心遣いをしても。「私って、あなたのことを好きかも。」で終わる可能性がある。「これが好きです。」「あれは嫌いです。」と明解に表現しよう。なによりも自分自身を立て直すために。言葉は、気持ちや考えの現れであるから、安易に、曖昧な言葉を使用していると、その言葉に見合う認識しかできなくなる。国語教室では、絶対に使用してはならない
 「うれしいかなと思ったりします。」という形式の表現に出会うこともある。」だれの内面かと思ったら、自分自身のことである。なぜこんな回りくどいことをいうのか。「……とは思います」という表現も、ごく普通に使われている。なぜ「……と思います」ときっぱり言い切らぬのであろうか。「そもそも」とか「戦闘」という言葉の意味を巡って、国会がもめているというが、、言語感覚として疑問があるうちに何とか打開策を講じなくてはならない。

②  「……ふつうに 」
  小学校の先生のツイッターの文面を引用した。そのなかに、「普通にうるさい」という表現があった。このような「普通に」を初めて聴いたのは、勤務先の大学の女子大生からであり、そのときは、妙な表現をする者だと思いつつ、おもしろいとも思ったのだが、よくよく考えてみると、こういう安易な表現が言葉を駄目にするものとも考えるようになった.普通程度にうるさいことは、単に「うるさい」と言えばよい。「とてもうるさい」状態を彼女たちは、「超(チョウ)うるさい」と言う。「チョウ」と「とても」の音節に大した差はないから、エネルギー節約の問題ではない。最近では、この「スーパー」状態を「鬼」とか「神」という言葉で表現することもあるようだ。(最も、この場合は、うるさいことが恒常化しているという意味かもしれないが。)  
 言葉は、そもそも概念的存在であり、具体的なイメージを表現するには、様々なスキルを必要とする。ここに取り上げた諸現象は、その言葉の概念性を一気にイメージ化する試みと言えなくもない。ツイッターやメールに絵文字を使用する若者が増えていることと無関係ではなかろう。分析的、論理的思考を背景にしない表現は、情緒的、具象的な表現を求める。そういう表現技法も、時には必要であろうが、それが基本になり、それ以外の表現方法が使用できなくなる状態は怖い。

③ 「……とは思います。」
 インタビューされる人間の多くが、「……とは思います」と言う。いつからそうなったのか分からないが、大流行である。いつしか、インタビューを見聞きしながら、心の内で、「……と思います。」と言えよ、言えよと願って、いつも叶わないで苛々する。どうしてこんな奇妙な表現が後半に使われるようになったのだろう。
 「とは思う」は、「強いていえば」というニュアンスがついて回る。「いろいろなことを思ったり、感じたりもするけれども、まあ(強いていうなら)……とは思う。」のでああろう。別の思いがなくても「……とは思う」と言っている。なぜ一音を無駄に使うのか.ら抜き言葉を常用しながら、一方では、こんな無駄をしている。
 「……と思います。」ときっぱり言い切ろう。