猪は野生の豚だと思うと、動作は緩慢でのろまな動物だと錯覚させられる。実際に
はその動きは敏捷で鼻の良さには定評があることは余り知られていない。一月の初
め、竹薮の中は猪の動きを探るのに見逃せない場所になる。猪は笱が好物でその
頃には臭いを嗅ぎ分け土の下にある筍を掘り出し食べる。
未だ十センチにも満たないものを人様より先に頂く、筍掘りの専門家でさえこの時
期に掘り出すことは出来ないのに猪は旬を先に楽しんでいる。竹の根が張り詰める
土を鼻や手で器用に掘り、傍には薄皮や繊維質の食べ捨てたものが残されている。
また、山芋も好物の一つで崖など急傾斜地を崩したり、大きな穴を掘って食べる。
山芋の蔓は秋になると枯れてしまい外から見てもどこにあるのか判らないが猪は臭
いで見つける。
山芋掘りしたことがある人なら判るだろうが一本の山芋を取る為には1メ—タ以上掘
らないと取れない。それを鼻と手足だけでやってのける。だから待ちに入ると煙草は
吸うなと言われる。臭いに敏感なので人に気付き方向を変えるという説からだ。実際
は緊急事態で逃足が速い時にはそうした事に無頓着で、慎重に注意しながら逃げ
るような時は煙草も要注意となる。
このような注意事項は常識とされているが、年寄りのハンターの多くは人の言うことを
聞かないから、待ちに入っても平気で煙草を吸ったりするし、寒いからと焚火をしな
がら待つ人もいた。経験談から、焚火をして待っている目の前をお構いなしに通過し
た猪がいたそうだ。今日の猟は、ヌタ場の下で待ちを張ることになりリーダーが勢子と
して入っている。犬を放してから大分、時間が経つのに一向に音沙汰なし。無線は
誰とも交信出来ない距離にいる。僅かに雑音混じりでリーダーと連絡が取れ犬とも離
れたし猪が何処にいるのか判らないと言う。途切れてから30分くらいした時、犬のか
ん高い鳴き声が聞こえた。無線で呼ぶが誰も応答してこない。『待つしかないな』と雪
をかき乾燥した杉の枯葉を敷き、座っていたが、やっぱり立って待とうとした。後の方
からサッサッと軽い音がした。12貫余りの茶色の猪が全速力で駆けて来るのが見えた。
幸い相手は私が見えないようで一直線でこちらをめがけている。
十分に余裕があり銃を構え狙った。10メータ以内に来た時、自信を持って発射すると
泥が舞い上がり猪は直角に曲がった。その速さの早いこと、下の茂みを走る猪に二の
矢を放つ。猪のスピードは衰えることなく1メータほどの高くなったところを飛び越えあ
っという間に消えた。銃を構えて撃つだけなら1~2秒もあれば3発は楽に撃てるが、銃
は発射の反動で上に動くから、理屈上はその修正をして2発目を撃つことになる。
頭で考えればこうなるが、一連の動きの中で起こることだから何の意識もなしに連射し
たが、3発目を撃つ時間がないほど猪の動きは速かった。
3発目の弹は未だ銃に残っており、逃げた場面をプレイバックしても、この弾を発射す
るシーンは浮かばなかった。