この国の国名が最初に記録されたのは、紀元57年に百余国の「委奴国王」が使いを後漢に送り、「漢委奴国王」の金印を与えられた時です。
この後漢・光武帝時代の「委奴国」、後漢・霊帝時代の倭国大乱の頃の「倭人国・天鄙国」、魏書東夷伝倭人条の「邪馬壹国(邪馬台国)」の国名が中国の記録から浮かび上がりますが、これらの国名は漢・魏国側が付けたのか、それとも倭人側が国書で上表した国名なのか、今回は最初に歴史上に登場する国名「委奴国」について考えてみたいと思います。
後漢書(5世紀)には紀元57年に光武帝が倭国の使者に金印を与えたと書かれ、志賀島から「漢委奴国王」の金印が発見され、通説は「漢の倭(わ)の奴(な)の国王」と読んで福岡県の那珂郡(福岡市の一部と春日市など)にあてています。
これに対して、「倭」を「委」字に省略することがありえないことから、奴を「いど国」と読んで「伊都国」にあてる説や、この金印は江戸時代に捏造されたという説も見られます。
しかしながら、漢王朝が周辺民族の中の一小国に印綬を与えた例が見当たらないことや、卑弥呼に対して「親魏倭王」の金印を与えていることからみて、倭人の百余国の中の1国に過ぎない奴国や伊都国に対して金印を与えることなど考えられません。なお、金印偽造説がありえないことは『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)に分析しています。
この「委奴国」は、どう発音していたのでしょうか? 「委」は倭音・呉音・漢音とも「い」、「奴」は倭音・呉音「ぬ」、漢音は「ど」ですから、委奴国は「いぬの国」または「いどの国」として国書を使者に持たせた一応は考えらます。そもそも、委奴国王が国書も通訳も持たせず使者を後漢に送り、光武帝に面会などできません。ましてや漢語を理解しない野蛮国の誰とも分からない使者に後漢が金印を与え、国書(冊)や金印を渡すことなどありえません。
紀元前2~1世紀の硯が唐津市、糸島市、福岡市、筑前町、松江市から、紀元1~2世紀の硯が吉野ヶ里町から見つかっており、紀元3世紀の倭人条には卑弥呼は「使により上表」し、「使訳通ずる所、三十国」と書かれています。末盧国(唐津市)、伊都国(糸島市)、奴国(福岡市)、邪馬壹国(筆者説:吉野ヶ里町・筑前町・朝倉市など)など卑弥呼を共立した倭国の30国には漢語を理解し、漢文を読み書きできる通訳がいたのです。発見された硯からみて紀元前2~1世紀にはこれらの国々では漢字を使用していたことが明らかです。
では漢字を理解していた倭人が、「奴隷」「匈奴」などに使われる「奴」字を国名に使用したでしょうか?「奴」字は「女+又(右手)」で、手を縛られた女奴隷を表す字とされています。
この難問には数か月、悩みましたが、私の結論は「奴」字は、中国が母系制社会であった周の時代には「女+又(股)」で、子供が生まれる女性器を指していたのではないか、それが倭国に伝わってそのまま残っていたのではないか、という解釈です。「奴」が女奴隷を表すようになったのは、春秋戦国の戦乱によって奴隷が生まれてから、と考えられるのです。
というのは、「姓名」の「姓」が「女+生」であり、孔子の「男尊女卑」の「尊」字は「酋(酒樽)+寸」、「卑」字は「甶(頭蓋骨)+寸」で「女が支える先祖の頭蓋骨に、男が酒樽を捧げる」という鬼神信仰(祖先霊信仰)の男女の役割分担を示していることは前に述べましたが、孔子が理想と考えていた「女+臣」の姫氏の周王朝の時代は母系制社会であった可能性が高いのです。
孔子が住みたいとあこがれた「道」(天道・人道)の倭人国にはこの母系制が残っており、「奴」は尊字・貴字として使われていたと見られます。それは、八嶋士奴美(やしまじぬみ)などスサノオ2・3・5代目の王名や大国主の越の妻の奴奈川姫(ぬなかわひめ)の名前などに「奴(ぬ)」字が使われていたことから明らかです。「奴(ぬ)」は霊(ひ)=魂が宿る女性器(女+又)であり、魂が宿る「玉」(ヒスイの勾玉)を表していたと考えます。
海の「うみ、あま」読み、「原」の「はる、はら」読みの「い=あ」「う=あ」母音併用の例から見て、「委奴国」は倭音では「いぬうあの国」と発音し、「いぬの国」とも「いなの国」ともとれる発音であり、「稲(いな)の国」として「委奴国」の国名を国書に印し、光武帝に上表した可能性が高いと考えます。
「海人族の倭人は紀元前から海を渡って国際交易交を行っていた」「倭人は紀元前から漢字を使用していた」「倭人は倭音の倭流漢字を使っていた」「倭音の母音は『あ=い=う』ととれる発音であった」「倭人は母系制社会であり、周時代の漢字用法が残っていた」という大前提で古代史を見直す必要があると考えます。
この国は中国文明を積極的に取り入れながら、「主語―目的語―動詞」の言語構造を変えずに漢字を使い、倭音を捨てることなく呉音・漢音を使っていたのです。安定した禾=倭(稲)の国、積極的に交易を行う国であり、霊(ひ)継ぎを大事にする母系制の国であったのです。
この長い歴史を踏まえるならば、食料を外国に頼り、貿易戦争を隣国に仕掛け、敵地攻撃能力を誇る軍国主義国への道を歩んではならないと考えます。
注:2019年12月17日のフェイスブックの原稿に加筆・修正しました。雛元昌弘
この後漢・光武帝時代の「委奴国」、後漢・霊帝時代の倭国大乱の頃の「倭人国・天鄙国」、魏書東夷伝倭人条の「邪馬壹国(邪馬台国)」の国名が中国の記録から浮かび上がりますが、これらの国名は漢・魏国側が付けたのか、それとも倭人側が国書で上表した国名なのか、今回は最初に歴史上に登場する国名「委奴国」について考えてみたいと思います。
中国の記録に現れた国名
後漢書(5世紀)には紀元57年に光武帝が倭国の使者に金印を与えたと書かれ、志賀島から「漢委奴国王」の金印が発見され、通説は「漢の倭(わ)の奴(な)の国王」と読んで福岡県の那珂郡(福岡市の一部と春日市など)にあてています。
これに対して、「倭」を「委」字に省略することがありえないことから、奴を「いど国」と読んで「伊都国」にあてる説や、この金印は江戸時代に捏造されたという説も見られます。
しかしながら、漢王朝が周辺民族の中の一小国に印綬を与えた例が見当たらないことや、卑弥呼に対して「親魏倭王」の金印を与えていることからみて、倭人の百余国の中の1国に過ぎない奴国や伊都国に対して金印を与えることなど考えられません。なお、金印偽造説がありえないことは『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)に分析しています。
この「委奴国」は、どう発音していたのでしょうか? 「委」は倭音・呉音・漢音とも「い」、「奴」は倭音・呉音「ぬ」、漢音は「ど」ですから、委奴国は「いぬの国」または「いどの国」として国書を使者に持たせた一応は考えらます。そもそも、委奴国王が国書も通訳も持たせず使者を後漢に送り、光武帝に面会などできません。ましてや漢語を理解しない野蛮国の誰とも分からない使者に後漢が金印を与え、国書(冊)や金印を渡すことなどありえません。
紀元前2~1世紀の硯が唐津市、糸島市、福岡市、筑前町、松江市から、紀元1~2世紀の硯が吉野ヶ里町から見つかっており、紀元3世紀の倭人条には卑弥呼は「使により上表」し、「使訳通ずる所、三十国」と書かれています。末盧国(唐津市)、伊都国(糸島市)、奴国(福岡市)、邪馬壹国(筆者説:吉野ヶ里町・筑前町・朝倉市など)など卑弥呼を共立した倭国の30国には漢語を理解し、漢文を読み書きできる通訳がいたのです。発見された硯からみて紀元前2~1世紀にはこれらの国々では漢字を使用していたことが明らかです。
では漢字を理解していた倭人が、「奴隷」「匈奴」などに使われる「奴」字を国名に使用したでしょうか?「奴」字は「女+又(右手)」で、手を縛られた女奴隷を表す字とされています。
この難問には数か月、悩みましたが、私の結論は「奴」字は、中国が母系制社会であった周の時代には「女+又(股)」で、子供が生まれる女性器を指していたのではないか、それが倭国に伝わってそのまま残っていたのではないか、という解釈です。「奴」が女奴隷を表すようになったのは、春秋戦国の戦乱によって奴隷が生まれてから、と考えられるのです。
というのは、「姓名」の「姓」が「女+生」であり、孔子の「男尊女卑」の「尊」字は「酋(酒樽)+寸」、「卑」字は「甶(頭蓋骨)+寸」で「女が支える先祖の頭蓋骨に、男が酒樽を捧げる」という鬼神信仰(祖先霊信仰)の男女の役割分担を示していることは前に述べましたが、孔子が理想と考えていた「女+臣」の姫氏の周王朝の時代は母系制社会であった可能性が高いのです。
孔子が住みたいとあこがれた「道」(天道・人道)の倭人国にはこの母系制が残っており、「奴」は尊字・貴字として使われていたと見られます。それは、八嶋士奴美(やしまじぬみ)などスサノオ2・3・5代目の王名や大国主の越の妻の奴奈川姫(ぬなかわひめ)の名前などに「奴(ぬ)」字が使われていたことから明らかです。「奴(ぬ)」は霊(ひ)=魂が宿る女性器(女+又)であり、魂が宿る「玉」(ヒスイの勾玉)を表していたと考えます。
海の「うみ、あま」読み、「原」の「はる、はら」読みの「い=あ」「う=あ」母音併用の例から見て、「委奴国」は倭音では「いぬうあの国」と発音し、「いぬの国」とも「いなの国」ともとれる発音であり、「稲(いな)の国」として「委奴国」の国名を国書に印し、光武帝に上表した可能性が高いと考えます。
「海人族の倭人は紀元前から海を渡って国際交易交を行っていた」「倭人は紀元前から漢字を使用していた」「倭人は倭音の倭流漢字を使っていた」「倭音の母音は『あ=い=う』ととれる発音であった」「倭人は母系制社会であり、周時代の漢字用法が残っていた」という大前提で古代史を見直す必要があると考えます。
この国は中国文明を積極的に取り入れながら、「主語―目的語―動詞」の言語構造を変えずに漢字を使い、倭音を捨てることなく呉音・漢音を使っていたのです。安定した禾=倭(稲)の国、積極的に交易を行う国であり、霊(ひ)継ぎを大事にする母系制の国であったのです。
この長い歴史を踏まえるならば、食料を外国に頼り、貿易戦争を隣国に仕掛け、敵地攻撃能力を誇る軍国主義国への道を歩んではならないと考えます。
注:2019年12月17日のフェイスブックの原稿に加筆・修正しました。雛元昌弘
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます