ひねくれ亭日常

散歩と徘徊が日常の独り言

中国人が来た 8

2020-10-05 11:32:14 | 中国人

日本語も出来ない留学生が増えたその後に日本は技能実習生という名目で更に多くの中国人を招き入れた。

町工場や建築現場、そして農業等日本の若者がやりたがらない所謂3K職場の労働力不足解消の為である。

あくまでも名目は技能の習得でそれを国に持ち帰り役立てるという事だが誰がどう考えても出鱈目な話だ。

先ず日本に来た途端に逃走する中国人が極めて多かった。

国内にはすでに中国人ネットワークが出来ており入国したら直ぐその中に潜り込む仕組みがあった。

真面目に現場で働く人もいたがそれをまたこき使う日本人が多い。

日本人では考えられない位の賃金でタコ部屋暮らし、その頑張る中国人を馬鹿にして虐める。

そんな事したらますます日本嫌い、日本人嫌いになるのは必定だ。

千葉県のイチゴ農家に取材をした時の事である。

3人の女性がハウスの中にいて作業をしていた。

挨拶をしたが無表情、実にやる気の無い態度。

家族かと思って農家に訊くと

「あれは中国人だ!」

このやりとりで関係性の悪さが計り知れた。

彼女達がその後どうなったかは知らないがやはり農業の現場でも集団で逃走する例は各地で聞かれた。

爺の夜這いやセクハラが日常で逃げ出す人も多かったそうだ。

勿論そんな関係ばかりではなく働き手として大切に接する農家もある。

しかし習慣の違いは大きく様々な軋轢を生んだ事は間違いが無い。

 

 

 


中国人が来た 7

2020-10-04 11:12:35 | 中国人

20年ほど前から各地の専門学校へ留学という形式で中国人が増え始めた。

当時或る専門学校で教えていたが急に中国人が増えて妙だなと感じたのを覚えている。

彼らは殆ど日本語を理解していなかった。これで一体何を学ぶつもりなのか甚だ不思議である。

周囲に訊くと専門学校に入学する前には1年程日本語学校に通う決まりらしい。

本当に勉強したのかこの人達は???

簡単な会話すら成立しないではないか。

就労が目的で学業は建前に過ぎない。

一月ほど通った学生はマシな方で全く通学しなかった人が大半だった。

文科省が中国人労働者を受け入れる口実を作っただけである。

彼らにしても高い学費を払わされて可哀そうな存在だと思う。

初年度で100万円以上は必要なのだから中国の田舎出身者にとっては大変な出費なのだ。

大借金を背負っての来日だったろう。

少子化に悩む教育関係に少しでも利益をと考えられたのだろうが酷い話だ。

この酷い政策は農政へと引き継がれていく。


中国人が来た 6

2020-10-02 10:51:12 | 中国人

西川口に中国人が住み始めた当初は単身者が多かった。

商売が軌道に乗り収入が増えだすと家族を呼び寄せる。

基本的に移住は出来ない筈なのにどうやったのかは解らない。

多くの妻子や両親が西川口目指して来日する。

しかし日本語は全く解らず、また日本の習慣も知らない中国の田舎の老人達には非常に居心地が悪かっただろう。

誰とも話をせずに日がな一日公園のベンチにポツンと座る姿は可哀そうな気がした。

また中国生まれの子供達も同様で初期に来た老人や子供は中国に引き返した人もいる。

市内の中学校で中国人子弟を受け入れる所が出てきた辺りから状況が変わりだす。

教育問題は大きな課題だった。

日本での成功を夢見てやって来る中国人はハングリー精神が旺盛で当然教育にも熱心だったのである。

初等教育を受けられる地域として川口市が知れ渡りその為に移り住む人が一気に増えた。

子供と商売を軸にした中国人コミュニティーが形造られたのである。


中国人が来た 5

2020-10-01 12:40:59 | 中国人

怒羅権が江戸川区、葛飾区を荒らし周っている頃も徐々に中国人は増えている。

池袋周辺がチャイナタウンと化し本格的な中華が珍しくなくなっていた。

主に彼らは水商売とそれに関連する産業に参入する。

まともな仕事だ。

しかしいくら池袋とは言え大量の中国人の流入には耐えられない。

飽和状態と家賃の高騰を招く。

その結果彼らはもっと家賃が低く利便性の高い地域へと移り始めた。

それが埼玉県の川口市、中でも西川口は適地として捉えられた。

西川口はえげつない風俗地帯として駅西口が有名だったが徹底的な浄化作戦で殆どの風俗は撤退した。

その後の店舗が格安物件として中国人ネットワークに乗り瞬く間に大量の中国人が押し寄せた。

最初は”ああ、面白い店が出来たな”程度だったのが見渡す限りの中華屋となり日本語も聞こえない完全なチャイナタウンと化したのである。


中国人が来た 4

2020-09-30 13:02:43 | 中国人

バブル時代に日本に来た中国人の大半は単なる出稼ぎ労働者だ。

日本に永住する気もないしもとより出来ないのが日本の法律なのだ。

例外は残留孤児で少なからぬ人が日本へやって来る。

これも非常に問題が大きく親戚一同以外にも友達や近所の人までもが一緒くたになって日本を目指した。つまり偽残留孤児問題だ。

当時の中国はまだ貧しく日本は正に桃源郷、日本へ出た孤児が故郷に仕送りをして寒村に御殿が建つ様子を見ていた農民に日本行きの衝動が高まるのは不思議ではない。

しかし元々の孤児たちは農民でも教育もまともに受けていない人が多く大変な苦労を日本でもするのである。

一番気の毒だったのは孤児たちの子や孫で日本に興味も無いけど連れて来られた人々だ。

彼らは積極的に日本語を学ぶ意欲も乏しい。

日本語が話せないのではまともな教育もそして就職先も無い。

ぐれて当然である。

そんな子達が集まったのが暴走族でも極めて凶悪な集団となる。

怒羅権だ。

この‟怒”は正に自分たちの境遇に対する怒りが発端だろう。