良寛さんと聞けば、近所の子供達と手まりや隠れんぼをして、遊ぶ姿が思い浮かびます。
童心を失わない人だったのでしょうね。
曹洞宗(禅宗)のお坊さんです。
当時浄土教にも理解を示しています。
明治の仏教界でも、高い評価を受けたお坊さんでした。
良寛さんは越後(新潟県)の名主の長男として生まれ、幼名を栄蔵と言いました。
争い事を嫌う、気の優しい少年でした。
十八歳の時に、人間世界の醜さに嫌気が差し、出家してます。
初めの師匠に付いて、得度を受け修行を始めます。この時から良寛と名乗り始めます。
その師匠が務めるお寺に、師匠の師匠と言う人が、北陸巡行の途中に立ち寄りました。
その人の風格に打たれ、4年の修行を経た処で、岡山まで次の師匠となる人の元を訪ね、弟子入りしています。
次の師匠の元で10年の座禅修行を重ね、33歳で印可(免許)を受けています。
これより良寛さんの放浪の旅が始まります。
中国、四国、九州に及んでいた様ですが、その詳細は残されていません。
放浪の途中に父親自殺の報を受けます。
父親は越後を出て、京の勤皇の志士達と交友し、皇室の衰えを目の当たりにし、悲憤のあまり洛西の桂川に身を投じたとの事です。
急いで京に出て法要を営み、高野山で亡父の冥福を祈っています。
17年ぶりに故郷の越後に戻ります、38歳になっていました。
弟が継いだ生家には戻らず、町外れのお堂に住み、乞食(こつじき)坊主を続けていました。
47歳の頃、ようやく山の中腹の庵に落ち着きます。
この頃子供達と遊ぶ姿が、認められています。
隠れんぼをしていた時、夕方子供達が帰ったのも知らずに、藁の陰に隠れていた良寛さんに、その家の主人が声を掛けます。
すると「見つかるではないか」と言った話は有名ですね。
さらに、ある家の軒先で托鉢をしていたのでしょうか!?
明日仏事が有るから、泊まっていってくれとしつこく頼みます。
黙っていた良寛さんがポツリと洩らします。
「(私は)死ねば来られない」と。
さらに晩年、地元の親戚の息子の放蕩が治らないので、意見をしてくれと頼まれます。
さすがに放蕩息子も緊張して丁寧にもてなします。
数日滞在しますが、意見がましい事も言わず、退去しようとします。
両親は不満ではありましたが、玄関におくりに出ます。
良寛さんは敷居に座り、草鞋を結ぼうとしますが、老いた手先が震えて結べません。
見かねた息子がたたきに降りて結びます。
その手の甲に雫が落ちます。
「どうされましたか!?」と尋ねる息子に、「わしもこの歳でな、このままお前との別れになるかも、知れんと思うと…」と言いました。
その後、息子の放蕩はピタリとやんだと言います。
人情味溢れる話ですね。
良寛さんはいつまでも、少年の心を持ち続けた、お坊さんだったのでは、ないでしょうか。